WEB VISION OKAYAMA

連載記事

岡山遊廓物語

 かつて、岡山で最もにぎわっていたのは京橋周辺だった。水上輸送の要衝で、多くの物資が荷揚げされ、人の往来も頻繁だった。ここに遊廓が設置されたのも当然であろう。今もその面影を残している。年配の岡山市民は、「中島(なかじま)」と聞くと、必ずニヤッとする。

 中島は旭川の中州で、西と東に分かれる。ここは、公認売春地帯だった。西中島は二枚鑑札と言って、お座敷遊びと女遊びができ、東中島はもっぱら女遊び専門だった。

 あの中島の河原で、桃色や赤色の腰巻がびっしりと干され、川辺にゆらゆらはためいているのを見て、青春時代のボクはムズムズしていた。

 また、1軒特異な薬屋があり、男女の生殖器の模型が陳列されてあった。興味深く眺めていたものだ。そこでサックを買うのが常連だった。

 お上(かみ)公認の施設だったから、当然衛生上の管理もされていて、検診医が週1回女性達を診察し、異常がないことを証明する許可印を押す仕組みになっていた。

 西中島の検診医は荒田一郎先生で、東中島は立花岩吉、すなわちボクの叔父だった。この人はダンスと連珠(五目並べ)の名人で、なかなかの風流家でもあった。ボクに「二度行ったらアカンが、一度は経験して来い」と勧められ、一人の女性を紹介してくれた。ボクは後にも先にもたった一回、体験入廓した。

 江戸の昔は、客は格子戸の向こうに並んでいる女性を眺めて選んでいたらしい。ボクが行った頃は写真がスラリと並べてあり、買い手がつけば裏返しにされていた。中には「写真調整中」という額もあった。これは、新しい娘であることの証明だが、どれだけ新しいのかは保証の限りではない。

 彼女達は毎夜2、3人の客を取らないと、廊主にイヤな顔をされ、たくさん客を取ると、悠々と朝寝することも許される。だから、彼女らはプロ精神に徹し、客を大切にしていた。その努力たるや、涙ぐましいものだと、ボクは感動した。

 本当は、その内容をつまびらかに記したいところだが、いささか遠慮する次第だ。とにかく、あっぱれなプロ精神だったことを特筆しておきたい。その心遣いを買われて、立派な所に引き取られ、優れた正妻となった人もいると聞いている。

 ボクが行った頃の代金は、確か5円だったと記憶している。当時、家庭教師のお手当が1カ月5円で、それを持って登廓したから、その金額を覚えている。

 彼女達の中には、客への恋愛感情も起きることがあったらしく、好きな男性には、自分のささやかな財布の中から、いくらか身を切って出していたとの話も聞いた。

 時計が普及していなかったからか、売春時間は線香一本が燃え尽きるまでと定められていた。燃え尽きると、やり手婆さんが「お時間ですよ」と言いに来た。好きな男性には、長くいてもらいたいので、線香の真ん中あたりに唾をつけ、わざと燃えるのを遅くしたエピソードも聞いた。

 当世に比べて、何と情の深い世界であったことか。ボクは決して、こうした制度が良かったとは言わないが、あの人情と苦労の世界は、今のドライでおっかない世界よりはマシだと思う。

本誌:2007年6.18号 26ページ

PAGETOP