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連載記事杉山慎策の経営学考察

山田方谷6

 たたらの砂鉄を生かした鉄鋼産業を中核として方谷の経営改革は進められた。方谷の経営改革の中核は、農業、つまり第一次産業を中心とした上杉鷹山の改革モデルから脱し、一次産業から二次産業にシフトさせることで大きな付加価値を生み出したことにある。短期間で松山藩の10年間のGDPに相当する借金を支払い、加えて、その借金に相当する金額を貯蓄するためには付加価値の高い産業にシフトさせることが必要である。これこそが方谷の改革の最も重要な点である。

 勿論、生産した商品を大阪で卸業者に渡さず、国内最大市場であった江戸で直接販売をしたことも利益の最大化という点では優れている。150年後の今日のSPAのビジネスモデルや一次産業の六次化を先取りしたものである。方谷は優れた経営者であった。

 多くの研究書が基礎としている『山田方谷全集』では、方谷が鉱山開発を行い、大きな利益を得たことが書かれている。この全集では、嘉永五年(1852年)方谷48歳の時に吹屋の銅山を買収したことが書かれている。これは「泉屋(住友財閥の商号)」が開発していた吉岡銅山ではなく、その北方に隣接する北方銅山のことであると推測される。

 実は同じ『山田方谷全集』で松山藩が吹屋の銅山を買収したのは元治元年(1864年)であるとも記されている。住友修史室編集の『泉屋業考』によれば、泉屋は1715年頃までに吉岡銅山の経営を終え、鉱山経営の主力を別子銅山に移した。松山藩は当時吹屋の庄屋などが所有していた吉岡銅山を1864年に買収した。その頃には潤沢な資金があった。当時、方谷は59歳であり、実質的に松山藩の経営トップであった。

 余談であるが、吹屋は銅吹屋の意味で、鉱山から掘り出された粗銅を精錬する製錬所を意味する。住友は銅の精錬で既に江戸時代最大の製錬所を経営していた。

 吹屋の銅山はこの後、明治6年(1873年)に松山藩から三菱財閥の岩崎弥太郎に売却された。住友財閥の創業の源は吹屋の銅山であり、ここでの経験を踏まえて別子銅山の開発がなされた。長崎の出島ではヨーロッパへの輸出品の主要商品の一つが棹銅であり、吹屋の銅山は江戸時代の初期には銅の主要産地の一つであった。吹屋は江戸末期には銅の生産が落ちたが、弁柄の生産が盛んになった。吹屋を買収した三菱財閥は欧州からの近代的な機械を導入することで銅の生産量を拡大し昭和初期まで銅の生産を継続していた。日本を代表する住友や三菱が岡山のこの地にルーツがあったことは特筆に値する。

 多くの研究書は方谷が蒸気船を購入して高梁で製造した備中鍬や釘を、玉島を経由して江戸に運び巨利を得たと述べられている。しかし、実際には「快風丸」を購入したのはずっと後の文久2年(1862年)方谷58歳の時である。従って、吟味役として当初の経営改革を担った時期とは10年以上の時間的隔たりがある。恐らくその頃には潤沢な資金を持っていて、購入に踏み切れたと考えられる。確かに、この大型の蒸気船で松山藩の産物を江戸に運ぶことで一層付加価値を高めたことは間違いない。大量輸送を短時間で実現することで物流コストが大きく下がり、利益率がかなり大きくなったと考えられる。

 方谷が産業育成のための「撫育局」を設置したのは嘉永5年(1852年)方谷48歳、改革を始めて3年目のことである。本業である製鉄産業を育成すると同時に、農業の育成として杉、竹、漆、お茶、煙草、柚子、和紙などの振興を図った。この「撫育局」は今日多くの自治体に設けられている「産業支援センター」であり、地域育成のためにはその地域で取れる特産品を育て、販売の手助けをする必要がある。方谷の偉大なところはこれらの産品に「備中松山」という地域名を被せたブランド戦略を展開したことである。国名や地域名は非常に強いブランド力を持つ。見方を変えれば、方谷の時代には既に国内でブランドが浸透していた「備中鍬」で一点突破を図り、その後横展開で特産品を拡売したとも言える。資源に限りがある場合にはこの戦略が一番有効である。

【法則の7 資源が限られている場合、一点突破横展開が最も有効なブランド戦略となる。】

【法則の8 地域名を上手に活用すると強力なブランド戦略となる。】

本誌:2019年11月4日号 23ページ

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