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連載記事杉山慎策の経営学考察

岸田吟香

 恐らく岸田吟香(以下吟香)より息子の岸田劉生(以下劉生)の方が遥かに有名であろう。劉生が描いた娘の「麗子像」はおかっぱ頭の7歳の少女の絵である。ダヴィンチのジョコンドのような不思議な笑みがある。本論では劉生ではなく彼の父である吟香が主題であり、主に杉浦正著『岸田吟香―資料から見たその一生』に拠る。

 吟香は旭川の河畔、福渡から国道53号線を離れて旭川沿いに北へ上った栃原(現久米郡美咲町栃原)に生まれた。先祖は石田三成とも言われ、徳川家康に滅ぼされてこの地に逃げてきて石田の一字「田」を入れ岸田と名乗ったとも言われている。先祖は農業のかたわら酒造業を営みかなり裕福であったが、吟香の生まれた1833年頃には傾いていたようである。

 吟香の誕生の地は旧美作国久米郡垪和村である。この先祖の地は三河挙母藩の飛び地(一万石)であった。挙母藩(ころもはん)は名古屋城にも近く重要拠点だったために江戸時代幕府の直轄地の時代を経て、徳川の重臣である本田家や内藤家によって支配されていた。明治に入る前の内藤家は伊井直弼の兄が伊井家から養子に入っていた。挙母市はトヨタ自動車の主力工場があり、本社の所在地のために1951年豊田市に名称変更した。

 神童と言われた吟香は13歳の時に津山の坪井の安藤簡斉に弟子入りし、津山藩で18歳まで学び、1850年江戸に出る。安藤簡斉は挙母藩の美作領事務総係をしていた。江戸では津山藩儒昌谷精渓の門に入り、林図書頭の塾に学んだ。林図書頭では代講をし、昌平黌にも入学許可される秀才であった。水戸藩でも講義を依頼されることもあり、この関係で藤田東湖とも知遇を得る。若き吟香は藤田などの影響を受け尊皇攘夷派として、頼三樹三郎、梁川星巌、僧月照、梅田雲兵などと親交を結んだ。

 吟香は津山藩のみならず挙母藩からも俸給を受けていたようである。これを「二口俸」と言う。この後吟香は攘夷派から開国派に転換する。1863年吟香は目を患い、箕作秋坪の薦めでヘボン医師の治療を受けることとなった。吟香はヘボン医師と親しくなり翌年の元治元年(1864年)にはヘボンの家に住み込むことになる。

 ヘボンと言えば和英対訳辞書である。漢学から洋学まで学んでいた吟香はヘボンにとっては頼りがいのあるパートナーとなった。ヘボン式表記法は所謂ローマ字表記であり、初めて日本語をアルファベットで表現できるようにになった。「和英語林集成」は慶應3年(1867年)に出版された。日本には印刷機がないために上海で印刷され、校正のために吟香もヘボンと共に上海に行っている。ローマ字表記に吟香は深く関わっていた。

 ヘボンの正式名称はJames Curtis Hepburnであり、1813年ペンシルベニア州ハミルトンに生まれている。プリンストン大学、その後ペンシルベニア医科大学で医学を学び、暫くして自分の医学を役立たせるために日本に来た。

 ヘボン医師のところで浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)を紹介され、本間清雄と3人で日本で最初の新聞「新聞紙」の発行を始めた。ヒコは播磨国から江戸へ船で向かう途中で難破し、アメリカ商船に救われアメリカで教育を受けアメリカに帰化し、駐日大使ハリスの通訳として日本に戻っていた。最初の新聞の発行は元治元年(1864年)5月25日のことである。この新聞はその後廃刊になる。吟香は明治6年(1873年)に「東京日日新聞」の主筆となる。「東京日日新聞」は明治15年(1882年)1月に経営権が福地源一郎に移り吟香は印刷人としての職を辞することになる。吟香は日本最初のジャーナリストと言っても過言ではない。

 吟香は「東京日日新聞」の経営権を委譲するにあたって一切条件をつけなかったが、退社後一年間の間彼の目薬の広告を無償で掲載してもらうことで合意していた。吟香はヘボン医師から目薬=精錡水の製法を伝授されていた。彼の目薬である「精錡水」を銀座の楽善堂で販売をして大成功を収める。彼はこの「精錡水」を中国でも販売を始め、日中友好に尽力する。また、明治9年(1876年)に訓盲唖院を設立して目の悪い人や聾唖者のための慈善事業を始めた。訓盲唖院はその後東京盲唖学校となり、今日では筑波大学の付属高校となっている。

 吟香は明治38年(1905年)肺炎のために死去する。彼は「ヘボン式辞書」に関わり、日本で最初の新聞を発行したジャーナリストであり、財界人として「精錡水」という目薬を発売し、社会貢献のため聾唖学校を設立し、「精錡水」の中国での販売を通して日中友好にも尽くした。吟香は「たまごかけご飯」を好み、日本各地に広めたと言われる。「たまごかけご飯」は故郷美咲町のB級グルメとして人気を博している。

本誌:2019年1月1日号 103ページ

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