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連載記事杉山慎策の経営学考察

島津斉彬3

 「お由羅」騒動は実質的にはお由羅と久光が首謀者であったが、調所の遺族も追罰され、家禄や家屋敷も没収された。一族は長く鹿児島に住めず東京に移り住んだ。皮肉にも斉彬の後は久光が薩摩藩を継ぐことになった。

 調所広郷の三男は調所広丈であるが、名前を「ずしょ」から「ちょうしょ」に変え、戊辰戦争と箱館戦争に参加し、のち北海道開拓使となる。その後、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、最後には男爵に叙勲され華族となった。

 嘉永3年(1850年)12月に斉興は登城し、将軍家慶から朱衣肩衝の茶器を与えられた。これは暗に退隠せよとの指示であり、老中阿部正弘により退隠勧告を受け、翌年嘉永4年(1851年)に斉興の代理人であり大叔父である奥州八戸城主南部信順と同道し、斉興の隠居と斉彬の襲封を願い出、裁可された。斉彬は、従来修理太夫と称していたが、薩摩守と改めた。時に斉彬43歳の時であった。

 家督相続を受ける歳とすると少々老齢に入った時期であった。本来であれば内紛により御家断絶の危機にあったが、斉彬を慕う水戸老侯や阿部老中、松平春嶽、伊達宗城、など多くの有力者が一致協力して斉彬の襲封を実現した。

 嘉永4年(1851年)3月江戸を発った斉彬は5月鹿児島に到着した。薩摩藩士のみならず多くの庶民が歓迎した。その中には後に明治維新の立役者となる西郷南洲(当時25歳)や大久保利通(当時22歳)がいた。

 斉彬はこの後、嘉永5年(1852年)8月までの、1年4カ月、嘉永6年(1853年)6月から安政元年(1854年)までの7カ月、安政4年(1857年)5月から安政5年(1858年)7月までの1年2カ月、の3回しか鹿児島にはいなかった。藩主として地元にいたのは通算で3年有余にすぎない。

 斉彬は安政5年(1858年)7月16日に急逝する。藩主としての在任期間は7年という短い期間であった。しかし、この間に多くのことを成し遂げ明治維新の礎を作った。貢献を列挙すると、「皇室尊崇」「 鎖国攘夷から開国進取」「民生安定」「洋式軍制の採用」「殖産興業」「教育・文武の奨励」「産業の近代化(造船、反射炉、溶鉱炉など)」が主要な貢献である。

 この内、特徴的な斉彬の政策について以下考察する。先ず、第一は「常平倉」である。世子の時代から藩の農民の困窮を熟知していた斉彬は、藩主になると同時に、藩の穀物倉を開いて、4千石を米商人に払い下げ、続いて5千石を払い下げたが、その価格を斉彬は指定していた。長い世子の間に米価の動きを学んでいた。当時の藩主で米価の動きを熟知していた珍しい藩主であった。「衣食足って礼節を知る」を家臣に徹底した。斉彬は藩主に就任した直後「常平倉(じょうへいそう)」を設けている。常平倉とは元々、豊年に穀物を安く買い入れ、凶年で高価のときに放出する官営の倉庫である。薩摩藩による買上げ米は1年に2千石ずつ、5年目に1万石の計画だった。嘉永4年(1851年)から同6年(1853年)までの3年間、この計画を上回る総額3万石以上を買い入れた。これ以外に安芸藩や長州藩からも米の買い入れをし、分散して備蓄していた。明治維新の時にこれらが兵糧として大きく貢献したことは言うまでもない。

 藩主になった斉彬は産業の近代化を推進した。国を守るためには産業の育成と軍事の近代化が必須であった。斉彬は日本初の近代的な工場群を仙巌園内に設けた。斉彬は、海外からの脅威に対し、自国を護るための大砲や武器、軍船を自前で作る必要があると考え、材料の鉄を溶かす溶鉱炉や反射炉建造に着手した。必要な熱源には寺山で焼いた木炭を使い、水は関吉から仙巌園まで水道を通し、さらにはガラス工場、紡績、蒸気機関の研究所など次々に設け、それらの工場群を「集成館」と名づけ産業育成を図った。

 これらの事業を達成するための人材育成のために斉彬の死後となるが、慶応元年(1865年)に新納中三、五代友厚、寺島宗則の使節団と森有礼ら19名の「薩摩藩遣英使節団」を送り出し、欧州やアメリカで技術や航海術を学び帰国した。彼らは集成館紡績工場の建設・運営、造船をはじめ、日本建国の礎となる産業革命の主役となって活躍することになる。

 家臣に対し斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり、退屈せずますます研究すべし」と励まし、苦労の末に反射炉を完成させた。日本では当時佐賀だけに反射炉が建設されていた。

本誌:2021年2月1日号 14ページ

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