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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉治憲(以下鷹山と呼ぶ)1

 2014年9月27日に米沢市を訪問した当時のアメリカ駐日大使キャロライン・ケネディ女史は、父の第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが上杉鷹山を称賛していたことを明らかにした。

 「父は『一人でも世の中を変えることができる。』とよく話をしていた。しかし、鷹山公ほど端的に言い表した人はいない。『なせばなる』」(出典:日テレ24NEWS:2014年9月27日)

“Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.”(訳「国が自分に何をしてくれるかを問うのではなく、自分が国に何ができるかを問いたまえ」)の就任演説のスピーチのスピリットが鷹山の『なせばなる』 に共鳴するところがあったのであろう。

 では、ケネディ大統領は何故鷹山を知ったのであろうか。それは札幌農学校で新渡戸稲造と共に学び、アメリカに留学した内村鑑三の著書である『代表的日本人』による。この著書は日本を代表する日本人として5名の日本人を解説し西洋に紹介したものである。5人の日本人とは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人である。内村は西郷隆盛に続く第二章で上杉鷹山を取り上げている。しかし、直接的に『なせばなる』の言葉は内村の本では書かれていない。内容的には米沢藩の苦境を救い、不可能を可能にした鷹山の改革の歴史を忠実にかつ端的にまとめたものである。キャロライン・ケネディ女史は鷹山の名言として今日も米沢で語り継がれている
「為せば成る、成さねば為らぬ、何事も、成らぬは人の 為さぬなりけり」
を引用して語ったものであろう。

 鷹山は宝暦元年(1751年)に日向国高鍋藩主秋月種美の次男として誕生した。山田方谷は1805年の生まれなので、彼より約半世紀遡って生まれたことになる。鷹山の母は肥前国秋月城の城主黒田長治の娘姫春である。姫春の母は米沢藩五代城主上杉綱憲の娘豊姫である。米沢藩主第八代上杉重定の養子に祖母である豊姫(瑞耀院)が子供の頃から優秀であった鷹山を養子として迎えることを進言して実現したものである。豊姫と重定は従妹にあたる。鷹山10歳の時である。秋月家のある一本松の屋敷から上杉家江戸上屋敷桜田邸に移った。この時秋月家の重臣三好善太夫は養子入りする鷹山に訓戒書を渡している。「恥辱を残さぬように」、「忠孝・学問・武芸に励むこと」、「上杉家の作法に従うこと」、などを述べたもので鷹山は一生この教えを守った。

 上杉家は元をたどれば上杉謙信に遡る名家であり、秋月家とは格が違った。後々上杉歴代の家臣との軋轢を乗り越えなければならなくなることは当然予測されていた。それは農民の身分の山田方谷が実質備中松山藩のトップになった時に受けた非難と同様である。上杉家では世子としての教育を儒者でもあり医者でもある藁科松柏から受け、また、当時全国的に著名な儒者である細井平洲にも学んだ。鷹山は後に細井平洲を藩校のトップとして招聘する。

 鷹山は明和4年(1767年)に重定の隠居により満15歳で米沢藩主第九代藩主となる。明和6年(1769年)鷹山は重定の二女である幸姫と結婚することになる。幸姫は残念ながら心身の発育障害があり子供同然の状態であった。鷹山は雛飾りや玩具遊びに優しく付き合ったと言われている。鷹山は江戸屋敷に幸姫を住まわせ、米沢では後に10歳年上の側室(お豊)を一人置いた。

 名門上杉家は関ヶ原の戦いの後徳川家に睨まれ、会津120万石から米沢30万石に減量転封され、更に寛文4年(1664年)四代綱勝が後嗣を定めず亡くなったことから15万石に減俸されていた。家臣団は120万石のまま維持していた。このために家臣や農村は疲弊し、山田方谷の時にも述べたが、藩そのものの俸禄を返上することすら検討されていた。そのような状況の中で、外者である第九代藩主として15歳の若者がこの米沢藩のかじ取りを任せられることになる。その苦労たるや想像を絶するものである。

 筆者は経営学の観点からこの鷹山の経営改革を分析してみたい。

本誌:2020年1月1日号 101ページ

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