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連載記事杉山慎策の経営学考察

山田方谷1

 山田方谷(以下方谷と略す)は1805年に今の高梁市中井町西方で生まれた。江戸時代をどのように区分するかについては15の将軍を5代ずつ3つに区分したり、あるいは、1603年から1868年を均等に(つまり88年を一区切りとする方法)3分割する方法がある。いずれの方法を取っても方谷は江戸後期に生まれ活躍し、明治まで生き延びた。江戸時代も享保の改革、寛政の改革、天保の改革を経て、方谷の時代になると単純な倹約主義や重農主義的な経済政策では立ち行かなくなってきており、本質的な改革が求められていた。

 眼を当時の世界を主導していたヨーロッパに転ずると1805年は旧勢力と新勢力の鬩ぎ合いがあった年であった。イギリスのネルソン提督率いる商船なども含まれる俄か拵えのイギリス海軍は、あろうことかスペイン・フランスの連合軍である無敵艦隊を破り一躍世界のリーダーとなった。イギリスはこの後第二次世界大戦終了まで世界のリーダーとして君臨する。ヨーロッパの先進国も重農主義的経済政策から重商主義的経済政策に舵を切り、最終的には1776年に発明された蒸気機関車などを進化させ、本格的産業革命を迎え飛躍的に豊かになる大きな転換の時期であった。

 方谷は並外れた神童であった。新見市大佐神社には方谷が4歳の時に奉納した「つる」の手形額がある。この額を見るだけでも方谷の才能が如何に秀でていたかを示している。方谷は5歳の時から親元から離され、新見藩の藩校・思誠館の学頭(学長)であった丸川松隠に預けられた。当時の岡山県は、備前池田藩が38万石、美作津山藩が10万石、備中松山藩は5万石、備中新見藩は1.8万石であった。自藩に優れた人材がいなければ当然多くの優秀な人材を擁するであろう池田藩とか津山藩に相談すべきと考えるのは当然のことであろう。池田藩は大藩であり縁戚により準親藩の地位を与えられていたが、外様である。津山藩は森家断絶から、家康の長男である結城秀康の末裔である越後高田藩から松平宣富が入城して治め、親藩の中でも御三家に次ぐ格式の高い藩であった。箕作や宇田川と言った洋学者がおり、学問においても秀でた存在であった。方谷の引受先としては当然のことながら新見藩より親藩でありかつ学問も盛んな津山藩を選択すべきであったと考えられるが、新見藩の丸川松陰に預けられることとなった。

 6歳の時には、時の藩主板倉勝職の前で揮毫をする機会を与えられた。16歳の時に相次いで父母が亡くなったことで実家に帰り家業を継いだ。23歳で丸川松陰の学友の京都の寺島白鹿に学ぶ。25歳で松山藩の藩校である有終館の会頭(教授)となる。30歳の時に江戸の佐藤一斎の門下生となり3年間遊学した。この門下には佐久間象山がおり、二人が激しい論戦を繰り広げたのは有名な話である。方谷はこの門下の塾頭(学長)となる。その後備中松山に戻り、34歳で有終館の学頭となり、約10年間松山藩の次代を担う人材の育成を担当することとなった。

 1849年方谷45歳の時に板倉勝静(松平定信の孫で板倉家に養子に入る)が藩主となり、方谷は元締役兼吟味役(財務大臣)に任命された。話が飛ぶが、筆者はこの丁度100年後の1949年に生まれた。筆者が生まれる100年前に方谷が与えられたミッションが財政改革である。当時の1両の現在価値はいくらかについてはいろいろと議論がある。ここでは1両が6万円と仮定する。松山藩の年収は4.2万両(約250億円)、支出は7.5万両(約450億円)、毎年の借金がその差の3.3万両(約200億円)である。方谷が改革をスタートした時の借金の累積は10万両(約600億円)であった。つまり、松山藩は年収の2.4倍の借金漬けとなっていた。

 話を現代に転じる。2019年2月8日の時事通信によれば、政府は2018年12月末時点の国の債務総額を1100兆5266億円と発表している。また、同時期のGDPは548兆円と発表されている。従って、国の借金総額はGDPの2倍である。現代の日本は方谷の時代の松山藩と同じ程度の借金漬けの状態にある。NHKの大河ドラマに方谷を取り上げるように全国で署名運動があり、100万近くの署名が集まっているようであるが、方谷はこの年間所得の2倍の借金を8年で完済することに成功した。方谷を学べば現在の国の借金も改善できるのではないかと考えても不思議ではない。

 では、方谷はどのような方法でこの難題に取り組んだのであろうか。佐藤一斎のところで学んでいる時に書いた論文に『理財論』がある。改革の基本方針として「事の外に立ち、事の内に屈しない」を基本方針として取り組んだ。広辞苑によれば「理財」という言葉は「家財を有利に運用する」という意味である。財務省の中にある理財局の役目は下記のように定義されている。

 国庫制度、国債・地方債、貨幣の発行、財政投融資、国有財産、タバコ・塩事業、日本銀行の業務・組織の適正な運営の確保等

『理財論』に印されたもう一つの理念は「利は義の和」であるということである。「綱紀を整え、政令を明らかにすれば自ずと結果は得られる」ということである。次回方谷はどのように改革を進めたのかを経営学の視点から明らかにしたい。

本誌:2019年6月3日号 19ページ

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