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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉鷹山5

 方谷の時にも述べたが、事を興す場合必ずそのための資金とその資金を使って実践する人材が必要である。資金の捻出に動いたのは竹俣当綱である。彼は御用商人に借金の棚上げを交渉すると同時に新たな産業育成のための借金を要請した。難交渉の結果、江戸の御用商人三谷家などからの5千両を借金することに成功し百万本植立事業に充当し、改革のスタートが切れた。

 100万本植立計画は全て順調に進んだわけではない。「漆・桑・楮」の3つの産業育成の中で少なくとも漆は天明2年(1782年)には百万本を超える植立がなされ、かなりの成果を生み出したことが記録されている。しかし、漆の蝋は後に熊本藩などの櫨の実から取れる蝋に取って代わられた。残念ながらこの壮大な計画は、明和9年の江戸の大火による藩邸の焼失やその後の天明の大飢饉(1782年から1788年)の影響もあり失敗し、竹俣当綱は責任を取って失脚することになる。

 天明5年(1785年)に鷹山は隠居する。隠居の理由はいろいろ考えられるが、筆者は前藩主(義父)の重定の存命の内に養子にしていた重定の実子である治広に家督を譲っておきたいという理由からだと考える。17歳で破綻寸前の上杉藩の藩主になり18年間必死に改革を続けた鷹山も若干疲れていたのかもしれない。しかし、疲れから藩主の座を譲ったというような精神的に弱い鷹山ではないと思いたい。やはりここは鷹山の実子である勝煕ではなく、重定が生きている内に正当な上杉家の血を引く治広に譲っておくべきであると考えての決断だったと考える。

 天明7年(1787年)8月に実父秋月種美の危篤の報を受け江戸に上った鷹山は毎日看病に高鍋藩藩邸に行き手厚い看護をした。9月25日に逝去するまで毎日一日も休まず看護をしたが、残念ながら秋月種美は逝去した。その喪が明けぬ中、今度は義父の上杉重定が病に倒れた。江戸から急ぎ米沢に戻った鷹山は上杉重定のために毎日夜遅くまで枕元で看病にあたった。幸いこの時は重定は一旦回復をした。この後重定は寛政10年(1798年)に亡くなる。

 この間藩主治広は志賀祐親と一緒に改革を進めるが、思うような成果は上がらず、藩士の俸禄の借り上げ(実質的には返さないので削減)で凌ぐような状態であった。給与カット、人員削減、鷹山が再興した興譲館の予算も大幅に削減されるような事態に陥った。鷹山は江戸にいる治広に「質素倹約」という消極策だけでは経営危機は乗り切れないことを伝えていた。しかし、経営改革は遅々として進まなかった。ついに、鷹山は寛政2年(1790年)に再度自ら改革に乗り出す。鷹山の後期改革のスタートである。

 鷹山は寛政2年(1790年)から寛政3年(1791年)までの藩の財務状況をまとめ藩内部に開示した。「会計御一円帳」である。これによれば歳入不足が2万両あったことが分かる。「家中の衣服をはいで藩の財政を支えている」状態であると言われる程であった。「漆・桑・楮の各百万本植え立て計画」の内「漆の蝋」の収入は5百両で、九州の櫨の蝋に市場競争で負けていた。

 そこで、鷹山は広く藩士に改革の意見書の提出を求めた。300通を超える意見書の中で莅戸善政の復活を望む声が大きく、鷹山は莅戸善政を中老職に任命して改革を進めることにした。鷹山は日ごろから領民の意見を聞くために上書箱を取り入れた。この上書箱の提案により治広の参謀であった志賀祐親は罷免されることになった。

 莅戸善政は短期の改革は無理と考え、「財政16ヵ年の組立」という長期計画を立案した。基本的考えは藩の収入の半分を藩の運営費にあて、残りの半分で借金を返済するという政策である。単なる長期的質素倹約ではなくきっちり借金を返済すること、農業再興策、殖産興業を興すことが改革の柱となっている。

 鷹山の前期の改革の時にも述べたが、何をするにしても資金が必要である。莅戸善政は江戸の商人たちと粘り強い交渉をして再度、江戸の三谷、酒田の本間、越後の三輪・渡辺などから資金を借り入れることに成功した。この資金を元手に鷹山の第二次の改革の幕が切って落とされた。

本誌:2020年GW特別号 17ページ

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