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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉鷹山3

 ジョン・コッターの変革理論においては、第一に「危機意識を高めること」が大切であり、第二に「変革推進のためのチームを作ること」が重要であると主張されている。鷹山が如何に天才でもたった一人では何も成し得ない。1767年(明和4年)に鷹山は大倹令を発令し、自ら率先して質素倹約を実践した。しかし、名門上杉120万石の歴史の中に留まり、現実を直視しない多くの反乱分子たちがいた。他藩から来た若き藩主に対する反発は尋常ではなかった。このような中で、鷹山にとって子飼いのチームの結成は最重要課題であった。

 この役目を果たしたのが藁科松伯の家塾であった青莪館で学ぶ若きエリート達であった。江戸家老の竹俣当綱や莅戸善政なども青莪館で学んでいた。彼らは若き藩主に上杉藩の未来を委ね改革の重責を担うことになる。俊才の誉れ高い藁科松伯は私塾で若きエリートたちの教育にあたる以外に、重定の侍医から鷹山の侍医になっていた。また、鷹山はこの青莪館で藁科松伯の紹介により生涯の師である細井平洲にも出会うことになる。

 細井平洲は1728年(享保13年)に尾張の国の百姓の子に生まれた。京都で学んだ後に、名古屋の中西淡淵の弟子になった。中西の勧めで長崎に遊学した後、24歳の時に江戸で家塾の嚶鳴館を開いた。朱子学や陽明学の長所を取り入れた折衷学を教えた。後尾張藩の藩校である明倫堂(現愛知県立明和高等学校)の初代督学(学長)となった。鷹山は細井平洲を三度にわたり米沢に招き鷹山の建てた藩校を興譲館と名付け、この藩校などで講義をした。細井平洲が米沢藩の改革に取り組む鷹山に送った言葉に「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。その意味するところは「勇気なくして改革は不可能である。勇気を持って取り組むべし」である。鷹山はこの言葉を胸にしまって改革に挑んだ。

 森平右衛門は下級武士の身から前君主である重定に重用され、郡代所頭取まで上り詰めた。下級武士からこの頭取まで上り詰めることは異例であった。森は譜代の臣下を改易したり弾圧することで権力の集中化を図った。

 竹俣当綱のグループは森の腐敗まみれの専制政治に反対した。竹俣は一人江戸から密かに米沢に戻り、1763年(宝暦13年)に森を奉行所詰の間に呼び出し、森の悪行を並べ、一刀のもとに殺害した。恐らく青莪館の中では森の腐敗政治についてはかなり議論されていたと推測されるが、竹俣は鷹山の密命を受けてことにあたったわけではない。

 当時の藩主である重定は、国家老の千坂、色部、芋川、竹俣の4人からこの事件の説明を受けた。これは正に米沢藩内のクーデターであり、後の鷹山の改革の踏み石となるものであった。重定はこの後1767年(明和4年)に隠居を決断し、鷹山に米沢藩の未来をゆだねることとなった。時に鷹山17歳であった。既に米沢藩そのものも倒産の危機に直面していた。

 郡代森平右衛門に代わり竹俣当綱が改革の中心となった。それ以外は青莪館のメンバーである莅戸善政、倉崎恭右衛門、佐藤文四郎、志賀八右衛門など鷹山の小姓たちであった。竹俣当綱は奉行職になり、鷹山の右腕となって改革に取り組むことになる。これは正に、コッターの言う「改革のためのチーム作り」に相当する。

 竹俣らの改革派と譜代の老臣たちとの軋轢は熾烈を極めた。最終的に積年の不満を爆発させ、七大臣の署名による若き藩主への反乱が1773年(安永2年)におきた。この七家とは奉行職の千坂高敦、色部照長、須田満主、侍頭の長尾景明、清野祐秀、芋川正令、平林正在の7名である。藩主鷹山が他家から来たよそ者であること、新奉行職の竹俣当綱の独裁の弊害、賞罰の偏向、鷹山のもたらした新法が家風に合わないこと、改革が混乱をもたらしていること、などを糾弾し古き体制に戻すことで米沢藩を立ち直すことができるという訴状で、鷹山に詰め寄り即答を求める事態になった。鷹山の側近は重定に間に入ってもらうことでやっとその場を収めた。

 鷹山は重定とともに監察職の大目付、御仲之間年寄、御使番の役職の面々を集め、七家からの訴状の項目を一つ一つ吟味し、全てを否定することとなった。また、三手宰配頭、三十人頭などにも広く意見を求め、訴状は全面否定されることとなった。

 鷹山は直裁し、須田と芋川は切腹、千坂と色部は隠居閉門・知行の半分の没収、長尾・清野・平林は隠居閉門し知行300石を没収した。また、この七家騒動の陰の首謀者であった藁科立沢は斬首された。鷹山はこの数年後七家の知行を元に戻し大赦し藩内の融和を図ることとした。

 危機に勇気をもって立ち向かい迅速な処断をすることで藩内を鎮め、この後鷹山は自身の意図する藩政改革にまい進する。

本誌:2020年3月2日号 17ページ

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