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連載記事杉山慎策の経営学考察

JALのロゴ4

 JALの実質的創設者の斎藤武夫について前回触れた。ブランド戦略やロゴ戦略から少し離れるが、斎藤武夫の弟に触れないでこの項を閉じるわけにはいかない。

 斎藤武夫の末弟に斎藤敬直がいる。彼は武夫が19歳の時、1900年に生まれている。ほぼ、親子ほどの年の差があり、武夫は弟の敬直を可愛がった。武夫や敬直の父は1906年に胃癌で逝去している。武夫が斎藤家の家督を引き継ぎ、実質的に敬直の親代わりとなった。

 敬直は1915年津山中学に入学するが、1918年に東京の武夫に引き取られ、青山学院中等部に入学した。1921年に日本歯科医学専門学校(現東京歯科大学)に入学する。1925年に卒業。日本郵船のシンガポール支店長であった武夫はシンガポールで歯科医院を開業させるため敬直をシンガポールに呼び寄せた。しかし、シンガポールで歯科医院開業後も敬直は遊蕩三昧の挙句、結果1928年歯科医院は閉鎖となった。敬直は帰国後歯科医院を自分で開業することをやめて、勤務医の道を選ぶ。1932年には埼玉県朝霞総合診療所歯科部長に就任する。1933年東京の共立病院歯科部長に就任した。この頃から俳句に傾倒し筆名として西東三鬼を使用する。言うまでもなく「西東」は「斎藤」の当て字である。以降実質的に歯科の仕事は放棄し俳句の世界に没頭することとなる。

 「京大俳句会」は元々第三高等学校で1919年7月に作られた「神陵俳句会」を前身として、1920年に創設された。1935年には京大関係者以外に門戸を開き、三鬼や高橋辰之助などが参加した。「京大俳句会」は新興俳句運動の中心となり、「自由」や「反戦」の色を濃くして行った。

 時恰も日独伊三国同盟が結ばれ、日本が世界戦争にまっしぐらに進んで行く時期であった。1940年8月31日早朝に大森の三鬼の家に特高が4人押しかけ、俳句関連の書籍に限らず、蔵書の大部分と俳句雑誌全てを押収した。大森署に連行されその後京都松原署に移され取り調べを受けることになる。東京から京都の切符は三鬼自身が自分で購入した。しかし、交通費は実は官費で支払われるはずであったが、特高の警部補が着服していたことを三鬼は著書で述べている。また、押収された蔵書も古本屋に売却され売却費も特高の懐に入ったようである。

 問題になった句は、「昇降機しづかに雷の夜を昇る」というものであり、これを特高は「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」という意味だと決めつけたのである。罪名は「治安維持法違反」で、最高刑は死刑となる。自白の手記を書かされた三鬼は最終的に検事の前で「起訴猶予」と宣告される。結局、この「京大俳句事件」では15名が検挙され、3名が起訴された。三鬼は1940年11月に京都から東京に戻った。

 京都から戻った三鬼は大日本航空総裁である兄武夫から呼び出され、「お前はアカか?」と問い詰められた。学費や生活費の面倒を全てみて歯科医師に育て、シンガポールや東京で歯科医院を開業させた弟が、歯科医を廃業して俳句の世界に没頭していたのである。挙句の果てに特高から睨まれて「アカ」だと見なされることは兄にとっては許し難いことであった。三鬼はその後1942年に神戸に遁走する。

 戦後三鬼は俳句の世界に没頭する。1946年に平畑静塔などと奈良句会を開始した。また、新俳句人連盟を結成する。石田波郷、山口誓子、橋本多佳子などと交流する。三鬼は温泉好きで湯原温泉の露天風呂である「砂湯」に仲間と一緒に入った時の写真も残されている。露天風呂の近くにある句碑は、「湯の岩を愛撫す天の川の下」である。

 日本郵船や日本航空の経営者として大成功し、秀才と言われた兄との精神的確執は想像以上のものだったと思われる。三鬼は「将来斎藤家で名を残すのは兄の武夫ではなく自分である」と言う言葉を残しているが、恐らく日本の翼を蘇らせることに晩年を費やした兄武夫の名前は岡山県人でも現在は知らない人が多いと思われる。逆に、必ずしも文学への関心が高くなくても西東三鬼の名前は今日でも目にする人は多いはずである。「経済は文化の下僕」なのかもしれない。

本誌:2018年7月2日号 23ページ

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