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 日本の企業の中で社名を変更し成功を収めた企業に「東京通信工業」から「ソニー」に変更した成功例を述べた。グローバル市場で呼びやすく覚えやすい名称だったことがその成功要因であった。しかし、グローバル化の早い段階でグローバル市場を意識した経営者の慧眼こそがその成功の根本要因である。加えて、画期的なトランジスタのラジオの一OEMメーカーになることより世界に自らの名前を知らしむ戦略を取った経営者の勇気に脱帽する。トランジスタラジオ10万台の注文を受けた盛田昭夫は「50年前には、あなたの会社のブランドも現在のソニーと同様に無名だったに違いない。わが社は今、50年の第一歩を踏み出すのだ。50年後には、現在のあなたの会社同様に有名にしてみせます」と語りソニーのブランドのグローバル戦略に乗り出す。今回は日本を代表する企業でグローバル化の途上で社名を変更したケースを見てみよう。

 日産自動車は元々1911年に橋本増治郎が中心となって設立した快進社に原点がある。この快進社に出資したのが、田健次郎(D)、青山禄朗(A)、竹内明太郎(T)の3人であった。この2人の頭文字(DAT)を取って名付けられたダット自動車(脱兎号)は1914年に完成し、この年に開催された大正博覧会に出品され銅牌を授与された。1918年には株式会社快進社となり、本格的自動車生産に乗り出した。しかし、経営は安定せず販売強化のためにダット自動車商会を1925年に設立する。一方で、米技師ウィリアム・R・ゴルハムが作った三輪自動車は大阪の事業家の出資を得て実用自動車製造となった。1926年ダット自動車商会とこの実用自動車製造が合併しダット自動車製造となる。

 他方、山口県出身の鮎川義介は渡米中に、東京帝国大学卒業の学歴を隠して職工として働き、鋳造の技術を会得し、帰国後1910年戸畑鋳物を設立した。この会社では自動車部品も一部作っていたが、自動車産業への進出を目指して前述のダット自動車製造を1931年に買収し傘下に収めた。1932年に495ccの小型乗用車生産1号車を完成し、最初はダットソンと名付けていたが、ソンは損に繋がることから、太陽(SUN)のサンに変え、ここにダットサン(DATSUN)が誕生した。1932年に自動車製造株式会社を設立。1934年には社名を日産自動車株式会社に変更し今日の日産が誕生した。1935年5月には、会社のロゴと社章が制定され、早くも1935年にはダットサンという名称で海外への輸出が開始された。

 筆者は1971年に米国に留学するが、ロサンゼルスの町中に停まっているフェアレディーZのエレガントなスタイルに感心したことを鮮明に記憶している。しかし、名称はダットサンで「何故ニッサンではないのか」と疑問に思った覚えがある。車の歴史の一幕を飾るこのフェアレディーZは1969年に発売されたばかりでアメリカでは大ヒット商品であった。ブランド戦略として国内は「ニッサン」海外は「ダットサン」で展開していたが、1981年に「ニッサン」に名称を統一することになった。

 恐らく国内の多くの消費者にとってはほとんど無関心の海外の出来事だったかも知れないが、実はブランド戦略論では度々取り上げられる大きな事件であった。BBCのTopGearの2013年7月16日のレポートによれば名称をニッサンに統一する動きがスタートした時、米国の1100のディーラーの看板の変更に3000万ドル、テレビ宣伝に2億ドル、名称の移行時の販促支援が5000万ドルで、合計5億ドル以上かかったと推測されている。その後長い間消費者調査でニッサンよりダットサンの認知度が高い状態が続いた。米国市場で日本車メーカーとしてトヨタ、ホンダに次ぐ第3位の地位に甘んじているのもこの名称変更に起因するという見方も多い。

本誌:2014年夏季特別号 35ページ

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