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連載記事杉山慎策の経営学考察

鍋島閑叟2

 閑叟は文政八年(1825年)12歳の時に、第十一代将軍家斉の娘、盛姫と結婚した。盛姫は4歳年上の16歳であった。政略結婚のために江戸藩邸の出費は藩財政の逼迫をもたらしたが、天保六年(1835年)の佐賀城二の丸の火災の時には幕府から二万両の拝借金を受け取るなど大きなメリットがあった。後にも詳述するが、これ以外にも将軍の娘との結婚により莫大な資金が鍋島藩に流れることとなった。

 閑叟は天保元年(1830年)に第十代鍋島藩主として家督を相続した。17歳の時であった。若き藩主閑叟は意気揚々と国元へ帰国しようと江戸を発とうとした。その当日、藩邸には多くの商人が借金の取り立てに押しかけ、結局出発を一日延ばすこととなった。若き藩主にとっては生涯忘れえぬ屈辱の事件であった。

 天保元年(1830年)お国入りした閑叟は、同年5月に早速「粗衣粗食令」を出し、自らも倹約に努めた。天保二年(1831年)には、参勤交代の費用を切り詰め、また、江戸藩邸の費用も大幅に削減した。天保三年(1832年)には藩主側役人の費用を節約、木綿着用、食事の簡素化などを進めた。天保四年(1833年)には参勤交代の見直しをして、人数を91名減らすことで1200両の節約をした。閑叟の実施した最初の改革は「節約」の一言に尽きる。

 佐賀藩の収入は、年貢(本途物成)と家臣からの献米が中心であった。これに小物成(雑税)があり、藩の基本財政から離されて藩主の手元の懸硯方として軍事用と非常用として管理された。藩財政が苦しい時はこの懸硯方から支出された。天保六年(1835年)には佐賀城二の丸が焼失した。これを契機として実権が前藩主の斉直から閑叟に移り、閑叟の信頼する若手家臣が藩の中枢を占めるようになった。最高責任者には鍋島安房(閑叟の腹違いの兄)、池田半九郎、田中善右衛門、中村之充などが据えられた。

 本格的改革は天保八年(1837年)からスタートする。最初の改革は藩の役人の三分の一にあたる約420名を今日の言葉で言うリストラすることであった。また、家老以下すべての家臣に対して、知行地・俸禄米の支給を止め、実際に藩の職に就いている場合、千石以上の者には知行地・切米の20%を支給、役職のない「休息者」には15%の相続米(生活費)のみを渡すこととした。千石以下の者についてもそれぞれの石高に応じてその割合が決められていた。要は、大胆なリストラを実施したことになる。役職についている者にはその役職に応じた給与を支払うが、役職についていない者には大幅なカットを実施することとなった。

 組織改革として、政務の中心を請役所とし、藩財政を扱う蔵方に農村を管理する郡方を兼務させた。藩財政の支出面を担当する目安方は請役所管轄とし、数名の重職たちと閑叟との間で意思決定ができるようにした。しかし、郡方は最終的には旧来通り知行地を持つ領主を郡方として任命するように修正され、小城郡は小城鍋島家、藤津郡は鹿島鍋島家、高来郡は諫早家などに委任した。年貢の徴収を管理する代官には人材を登用して、代官所を五カ所から八カ所に増設した。

 江戸末期鍋島藩も他の多くの藩と同様に多額の借金を抱えていた。この借金の整理を担当したのが鍋島安房である。長崎商人への返済は一部だけを支払い、残りは70年とか100年の年賦返済とした。大阪の三井家からの借金の場合、四分の一を5年で返済し、残りの四分の三については強制的に献金させた。恐らくその他の商人たちにも同様の対応で殆どの借金は踏み倒すこととした。

 当時の収益の多くは農地からもたらされたものであり、農地を管理することは最重要政策であった。農民は農村で生活させ、商人が農地に入ることを禁じた。特に酒屋は農村から遠ざけた。農村に居住することが許された職人は「綿打」「大工」「鍛冶」「家葺」の4つの職人のみであった。

 閑叟の農村政策のユニークなものに「加地子猶予」がある。これは小作人が地主に納めるべき「加地子米」を納めないでよしとする政策である。生活の苦しい農民を守るために藩の財源を傷めず、地主にその負担を求める政策であった。実際天保十三年(1842年)から十年間この政策は継続された。

 19世紀初頭には日本国内で百姓一揆が多発するが、佐賀藩にはその記録がない。多くの下級武士たちが農村に住んでいたことや代官の取り締まりが厳しかったこともその要因の一つではあるが、この「加地子猶予」の政策が農民救済に寄与していたとも考えられる。

本誌:2020年9月7日号 19ページ

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