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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉鷹山7

 鷹山も恐らく産業育成の重要性には気が付いていた。財政状態が厳しい中で多くの産業の育成を仕掛けた。しかし、結局明治になっても継続された産業は養蚕と絹織物であった。不思議なことに、この鷹山の育成した絹織物の伝統は現在の「帝人株式会社」(以後テイジン)の創業に結び付いている。

 米沢の絹織物は明治になっても発展し輸出産業になった。しかし、この絹織物に対抗する新しい繊維がフランスで開発された。1884年のことである。絹のような肌触りがする「夢の化学繊維」であるレーヨンの誕生である。(テイジンのホームページによる)

 日本化学繊維協会のホームページによれば、欧州でレーヨンの工業生産が1891年から開始された。このまま放置しておくと日本の絹織物産業が壊滅的打撃を受けることを危惧した米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の秦逸三教授は、木材パルプからレーヨンを製造することに成功した。

 明治になって武士の救済のために上杉家は米沢製糸場を設立した。その後この米沢製糸場は閉鎖されていたが、秦たちはこの工場を買い取り、1915年に東工業米沢人造絹糸製造所を創設した。これが帝国人造絹絲に社名変更され、出資者の鈴木商店の倒産などがあり、本社を大阪に移して今日のテイジンにつながる。正に、鷹山の育てた絹織物産業のレガシーがテイジンにつながっているのである。

 鷹山と方谷とは54歳の開きがある。親子以上、あるいは、祖父と孫くらいの年代差がある。どちらも知識欲旺盛で、儒教などを若くしてマスターした天才である。鷹山は「私は孔子流である」と述べたように儒教一本であり、方谷はどちらかというと「陽明学」中心の改革者であった。

 しかし、経営改革という視点から見ると圧倒的に方谷に軍配が上がる。方谷はたった7年で、10万両の借金を抱えた備中松山藩を10万両のキャッシュを有する豊かな藩に変革させてしまった。後述するように鷹山は17歳という若さで名門上杉家の藩主となったが、藩の累積借金は11万両にもなっていた。確かに備蓄米など飢饉に備えた対策はできたかも知れないが、鷹山の亡くなる55年後でも、やっと5千両程度のキャッシュしか残せなかった。

 その原因は何かを考えてみると、やはり、方谷はコメ作りに依存する一次産業(農本主義)に早くから見切りをつけ、たたら製鉄という二次産業(産業主義)に舵を切り、備中鍬などを大量に生産し販売したことにつきる。鷹山は絹織物などの二次産業に移行させようと努力はしたが、やはり、コメ作りを中心とした一次産業(農本主義)に留まった。その結果、半世紀をかけても大きな経営改革はできなかった。

 この教訓は今日の日本にも当てはまる。バブル崩壊後の日本が欧米の先進国と比べ遅れを取っているのも、日本の経済が自動車や電化製品という二次産業に依然として依存していて、金融やICTなどの第三次産業に構造転換できていないことにある。小学校の教育にスクラッチ教育を取り入れるなど、教育改革も変化の兆しが垣間見える。5Gが今後浸透するにつれてICTの世界は激変する。恐らく今日日本がやらなければならないのは学生のみならず社会人全体に対するICTの再教育である。

 鷹山は文政五年(1822年)に72歳で亡くなった。明和4年(1767年)17歳で改革を始めた頃、米沢藩の借金は11万両にも上っていた。鷹山が亡くなってから一年後の文政六年(1823年)には借金はほぼゼロになったことを鈴村進氏は『上杉鷹山 人を活かし、人を動かす』で述べている。藩自体の軍用金として5千両の準備金があり、不時の為の備蓄米などが充足されていた。鷹山が藩主になった頃とは大きく変化した。

 鷹山は非常時の対応のためにコメだけではなく代用食を広めた。これは飢饉の際に備えるためで、食用菊・クズ・ヨモギなどを『かてもの』として広く藩内に広め、万が一の際の危機に備えた。鷹山は「人間にとって一番大切なものは命である」と述べている。

 コロナ禍に見舞われている今日、とにかく命さえ守られれば恐らく将来経済を復興させることは可能である。単純に前年と比較してGDPが70%ダウンなどということは殆ど意味がないと思われる。日本は風光明媚な国であるが、これからも想定外のウイルスや地震・津波などの自然災害に必ず襲われる。その際は鷹山が自藩の人々の生命を守ったように、一旦は命を守る行動をとり、事態が正常化してから復興させて行けばよいのである。鷹山の言う、「為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」を肝に銘じておきたいものである。

本誌:2020年7月6日 19ページ

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