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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉鷹山6

 治広に藩主を譲り、治広主導で改革を進めたことをもって第二次改革と呼び、この度の鷹山自らが進める改革を第三次と呼ぶ研究者も多い。しかし、治広の改革は治広が実施したものであり、鷹山の実行した改革ではない。治広に任せていた米沢藩の経営が滞り、やむを得ず自らが中心となって改革に乗り出した。従って、今回の改革を鷹山の第二次の改革と呼ぶこととする。

 鷹山の第一次の改革は、鷹山自身が若かったこともあり改革を急ぎすぎた面があったことは間違いない。第二次改革は寛政の改革とも呼ばれるが、不惑を超えた鷹山は今回は慎重に改革を進める。合議制を取り、莅戸善政、中条至資、広居忠起の3名の合議による会議を最高意思決定機関とした。この3名に加えて、必要に応じて大目付の丸山蔚明、仲之間年寄黒井忠寄らが招かれた。

 中老に任ぜられた莅戸善政は四十七か条の「総紕」と呼ぶ政策の骨子を立て、これを柱として改革をすすめることになる。「総紕」には二つの大きな柱があり、一つは治広の進めた「大倹約令」ともう一つは「選択的産業振興策」である。

 年寄の黒井忠寄は中老の莅戸善政に十六年という超長期の計画を提示した。農民も必要最低限度の収入が確保でき、金主にも借金の返済ができ、産業振興もでき、家臣への知行借上げも返済するというバラ色の長期計画である。農民に対して滞納分は長期間で返済すればよいという考え方に立つ。取立人を派遣して年貢を取り立てるのではなく、自主的に納入する制度に変更した。しかし、実際に調べてみるとかなりの未納分があった。鷹山はこれは結局農民が疲弊していることを示していると考え、農民に休養を与えて体力を回復する措置を取った。

 養蚕の振興を図る産業育成でも、困窮している農民は桑の苗木を購入する資金にも欠けていた。藩の費用で桑の苗木を購入して農民に与え産業振興を図った。鷹山は「小を積んで大をなす」という考え方に基づき辛抱強く長期的産業振興を進める。絹織物はこの後米沢藩を代表する産業となる。

 北条郷には黒井堰として今日も名前が残る農業堰がある。作業員延106,600人を動員し、鍛冶川を塩野川と合わせ、藤泉にあった堀と結合させた。この農業施設は後に糖野目へ延び、赤湯や梨郷を潤す一大工事となった。黒井は次に飯豊山にトンネルを掘り白川の水を豊かにすることで農地の拡大を図った。彼はこの工事の途中で亡くなり完成を見なかったが、二十年後の文政元年(1818年)に完成した。

 米沢藩には馬が少なかった。馬は高価な値段で藩外から購入されていた。そこで、鷹山は農耕用の馬も含めて地産地消に力を注ぐこととした。藩外から良馬を買い入れ藩内で育てる政策である。この馬の産業の育成は助成金の政策も寄与して、馬の価格も下がり農耕馬としても普及する。米沢は馬市が立つ町に変身を遂げた。今日の「地産地消」の考え方につながる。

 赤湯温泉は鷹山の時代湯治客のための温泉地として繁栄していたが、同時に遊女もいる遊里でもあった。藩を上げて大倹令の下で、領民全てに規律を守ることを進めていた中で遊興で身を崩すものもいた。恐らく鷹山は禁止措置を取りたかったのかも知れないが、禁止しても禁止できるものではないという理由で許された。今日のIR誘致政策と同様で、ある程度は「清濁併せ呑む」ことが必要となる。「尺をもって寸を測るな」という考えで、高邁な理論ばかりを振りまくことだけではなかなか実績は上げられない。

 鷹山は温かい人間尊重主義を貫いたが、その一つとして老人を敬うことを始めた。安永6年(1777年)に藩内の90歳以上の老人を城に招き金と米を与え宴席を設けた。その後老人が城まで来ることは負担がかかるということで記念品が配られるように変更された。寛政元年(1789年)には重定の古希(70歳)の祝いに領内の70歳以上の老人738名に酒樽が配られた。文政三年(1820年)の鷹山の古希の祝いには対象者が4,560名になっていた。15歳以下の子供を5人以上持っている家庭には末子が5歳になるまで扶持が与えられた。老人や子供という弱者対策を取ったことで鷹山の名声はより高まったことは間違いない。正に「君主は民の父母」の実践に他ならない。

本誌:2020年6月1日号 17ページ

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