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連載記事杉山慎策の経営学考察

山田方谷3

 広辞苑によれば「理財」とは「家財を有利に運用する」という意味である。近年マスコミを騒がしたが、財務省の中には理財局があり、その役目は下記のように定義されている。

   国庫制度、国債・地方債、貨幣の発行、財政投融資、国有財産、タバコ・塩事業、日本銀行の業務・組織の適正な運営の確保等

 「理財」に似た言葉に「経済」がある。「経済」は「経世済民」からの言葉であり、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味である。どちらも中国の古典に原典があり、江戸・明治の知識人は熟知していた言葉である。明治の時代、東京大学でも慶応大学でも「経済学部」ではなく「理財学部」を掲げていた。

 方谷の改革の基本理論は佐藤一斎の下で学んでいた時に書いた「理財論」に原点がある。方谷が32歳の時に書き上げたものである。松山藩の改革を委ねられるということも到底想定できない時期である。方谷自身は松山藩の現状を危惧しており、改革をするのであればこのような方法で実施すべきであると主張したものと考えられる。勿論板倉勝静の目に触れることも十分に想定していたに違いない。

 野島透氏の「山田方谷に学ぶ改革成功の鍵」の中でも、藩政改革の中核理論はこの「理財論」であり、「事の外に立ちて、内に屈しない」という点の重要性を指摘されている。その意味するところは、「収入の増加と支出の削減」のみに気を取られるのではなく、「領民が報われ、豊かになれるように、いかにして経済に、社会に活力を与えていくか」が重要であると解説されている。

 暗愚で浪費家の板倉勝職が1849年に隠居し、満を持して養子の板倉勝静が藩主となる。方谷は既に45歳になっており、隠居を考える年頃になっていた。江戸時代の平均寿命が40歳前後であることを考えれば、方谷は既に晩年に差し掛かっていたことは間違いない。その方谷に対して、勝静は備中松山藩元締役兼吟味役を命じた。藩の財政運営の全責任を担うと同時にその執行も担う重職である。組織分割される前の大蔵省のような強大な権限を持ったことになる。勿論方谷への反発も多く、「御勝手に孔子孟子を引き入れて、尚此上に空にするのか」というような狂歌も読まれている。

 いよいよ改革の幕が切って落とされた。方谷が最初に手掛けたことは、松山藩の財政状況の詳細な調査である。既に法則の3でも述べたように、改革のためには「正確な情報をステークホールダー全員に開示すること」が重要である。方谷は次のような驚くべき事実をあからさまにした。

 ①備中松山藩は表向き5万石(5.7万両)であるが、実際は1万9300石(2.2万両)に過ぎない。
 ②これに対して支出は、江戸屋敷の費用1.4万両、家中の扶持米8千両、借入金の利息1.3万両など、7.58万両必要であり、
 ③米以外の特産物や臨時収入などを入れても3.3万両(約200億円)が毎年赤字となる
 ④累積債務は既に10万両(約600億円)になっている

 全ての改革の基本は事実の把握、つまり、事実に基づく危機意識の喚起であり、ステークホールダー全員に事実を知らせ、危機意識を共有することである。再度法則の3を掲載しておきたい。

 【法則の3 改革には正確な情報を組織の構成員全員に開示することが重要である】

 方谷は多くの重鎮たちの反対を押し切り、正しい財務状況を公開し、同時に、資金の供給者である大阪の両替商たちに、借金の棚上げを依頼し、返済計画についての説明をし、彼らの信用を勝ち取ることに成功した。

 紙切れ同然で信用を全く失墜していた藩札を回収し、高梁川の河原で焼き捨てるという過激なパーフォーマンスに出た。朝から始め夕方まで焼却するのにかかったと言われているので、狭い松山藩の故に多くの領民もこの方谷のデモンストレーションを見たに違いない。領民も含めて藩の異常事態を意識させ、同時に新たな藩札である「永銭」への信頼を勝ち取った。

 改革のもう一つの柱は、常套手段とも言える「入るを量りて出ずるを制す」という政策である。勝静の祖父の松平定信の行った寛政の改革や、それに先駆けて行われた上杉鷹山の改革などを参考として「一汁一菜」「俸禄の返上」「木綿衣着用」など「上下共常々質素節倹」を実施した。質素倹約について次回経営学的考察を加える。

 【法則の5 改革の初期段階では「入るを量りて出ずるを制す」必要がある】

本誌:2019年夏季特別号 29ページ

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