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シャネルのストーリー

 「化粧をしない女に、明日はない。香水をつけない女に、未来はない」ココ・シャネル

 高級ブランドシャネルを創業したココ・シャネル(本名ガブリエル・シャネル)の言葉である。誰もが知っている香水のNo.5。筆者が化粧品業界に入って一番衝撃を受けたブランドがシャネルであり、香水のNo.5である。白と黒の色調、そして、極限までのシンプルさ。資生堂は資生堂というコーポレートブランドの下に多くのプロダクトブランドを持ち、そのプロダクトブランドにいろいろな色を多用していた。シャネルのデパートでのカウンターを見た時の驚きは今でも鮮明に覚えている。加えてこの香水のNo.5は名前のユニークさ、パッケージのユニークさ、独特の香り、どの点から見ても「凄い」の一言である。この香水はロシア革命から逃れフランスに移住した調香師エルネスト・ボーにより作られた。1921年のことである。シャネルはこの香水シャネルNo.5からの収益でブランドの基礎が創られたと考えて間違いない。マリリン・モンローが寝るときは何を着て寝るのかと問われ、「シャネルNo.5」と答えた有名なエピソードも残っている。英語では服を着るのも香水をつけるのも同じ“Wear”という言葉を使う。

 「モードを追わない。何より大事なのは自分のスタイルを確立すること」ココ・シャネル

 19世紀末から第一次世界大戦までの時代を「ベル・エポック」(良き時代)と言う。当時の上流階級の女性たちは胴を締め付けて細く見せ長いフリルのついたドレスを着ていた。ゆっくり動くのがやっとという状態であった。別の見方をすれば、それが優雅と考えられた時代であった。安達正勝著の『二十世紀を変えた女たち』の中で、フランスでは「大戦争」とは第一次世界大戦を指すと述べられている。第一次世界大戦の死者は130万人であり、第二次世界大戦のそれは20万人であるとのことである。第一次世界大戦で多くの男性は戦争に動員された。女性は経済活動の穴埋めをするために必然的に社会の第一線で活躍するようになった。

 このような背景の中1926年シャネルは「リトル・ブラック・ドレス」を発売した。黒は喪服の色であったが、その黒を基調とし膝丈の簡素なドレスが一躍世界を席巻することとなった。モードは流行であり、スタイルは生き方である。シャネルは女性の新しい生き方を提唱し、それが多くの女性、特に社会進出を果たしつつあったアメリカの女性たちに広く受け入れられたのである。その後、スコットランドのツイードを使用したツイードスーツの発売(1929年)など革新的なイノベーションを続けていった。第二次世界大戦に向かう中1939年にスイスに移住した。

 「なぜカムバックしたかって?退屈だったからよ」ココ・シャネル

 1953年70歳にしてスイスからパリに戻ったシャネルはホテル・リッツに住んだ。カンボン通りの店を再オープンし、1954年2月5日復活コレクションを開催した。ファッション界はこぞって酷評し、かつての恋人でイギリスの貴族で大金持ちであった「ウエストミンスター公すでになし」と揶揄した。シャネルは諦めることなくコレクションを継続した。1956年履きやすいAラインのスカートの「シャネル・スーツ」を発売し、モナコの大公妃グレース・ケリーなどにより愛用された。1963年ケネディ大統領が暗殺された時にジャクリン・ケネディが着ていたのも「シャネル・スーツ」である。シャネルは1971年87歳で亡くなるまで新しい作品を発表し続けた。1955年発売したショルダー・バッグや1957年発売のバイカラー・シューズは今日でもシャネルのアイコンである。

 「恋愛のない人生なんて考えられない」ココ・シャネル

 1883年(明治16年)貧しい家庭に生まれたシャネルは早くに母親に先立たれ12歳の時に父親にオーバージーヌの修道院に預けられた。18歳までここで過ごし、その後歌手を目指したりしたが、上流階級のエチエンヌ・バルサンと一緒に住むことになる。その後、バルサンの友人のアーサー・カペルの資金援助で帽子屋をパリで始めファッション界に踏み出す。その後数多くの男性から沢山のことを学んだ。シャネルが関わりをもった男性は超一流の人物ばかりである。シャネルの知性と教養はこれらの男性から得たものであることは間違いない。その中には、ジャン・コクトー、セルゲイ・ディアギレフ、ウエストミンスター公爵、パブロ・ピカソ、ウィンストン・チャーチル、ポール・モラン、ピエール・ベルテメールなどがいる。シャネルのスピリッツは1983年以降カール・ラガーフェルドに引き継がれている。

本誌:2017年2.6号 19ページ

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