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村のお葬式

 実家の両親の介護をするようになって、私自身の住民票はよそにあるのに、何かと父の名代で地区の行事に参加する機会が多くなってきました。なかでもお寺関係の行事や近隣の葬式の手伝いは断りづらくいやいやながらこの11年こなしてきました。

 小学校3年までしか地元にいなかった割には今でもみんなが64歳の私のことを“ちゃん付け”で呼んでくれるのは悪い気がしません。若いころ古里を捨てて世界に羽ばたいたつもりだったのに、結局は好きでも嫌いでもここが私の終焉の地になるのでしょう。地元の人々に受け入れられていることはありがたいことです。

 きょうも村の日蓮宗のお寺で大きなお葬式があり、私にも裏方世話人としての呼び出しがありお勤めを果たしてきました。しかし、何度お葬式に出ても暗記も理解もできないのが延々と続く読経です。

 手元の岩波仏教辞典によると「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることが成仏の唯一の法であり、この題目に釈尊の持つすべての功徳が譲り与えられているそうですが、葬式において果たしてこうした高邁な哲学思想が親しい人を亡くしたばかりの遺族、親族や友人の悲しみを慰めるのに直接役に立っているのでしょうか。

 10数年前、カナダに移民した伯父が91年に渡る長い波瀾万丈の生涯をアルバータ州のある町で終えたとき、私は休暇を取ってはるばる日本から通夜と葬式に参列しました。

 教会での葬儀は、牧師が分かりやすい言葉で聖書の幾章かを読み、参列者一同賛美歌を合唱し、私もアメイジング・グレイスをみんなといっしょに歌いました。Amazing grace! How sweet the sound, that saved a wretch like me…… 6人の子供や大勢の孫たちのスピーチは親密な言葉で語られ、涙あり、笑いありの感動的なものでした。生涯心に残る温かいお葬式でした。

 神の恩寵、愛と赦しを説くキリスト教とひたすら成仏を念ずる仏教方式との違いは信仰の問題なので簡単に比較できませんが、分かりやすさ、親しみやすさにおいては教会に分があると思います。最近は仏式でもこうしたことに留意し、式後スピーチをされる住職がいます。しかし大体は通俗的なお経の解説であり、遺族の心を慰めるにはまだ一工夫も二工夫も足りないという気がします。

本誌:2012年10.29号 13ページ

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