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あえかな名前

 いつのころからか日本の安全神話は崩れ去り、殺人事件がない日がないような状況になりました。今では月並みな殺人事件を報じる新聞記事など目にも留まりません。しかし3月3日、ひな祭りの夜、熊本のスーパーから行方不明になった3歳の女児が翌日遺体で発見されたというニュースには心が痛みました。

 私はこうした事件が報じられるといつも最初に被害者の名前に注目します。今度の事件では心(ここ)ちゃんという愛らしい名前の幼女が犠牲になりました。

 この子が産まれたとき両親はどこの親もするとおり、かわいらしくユニークでおしゃれな名前を考えたに違いありません。平凡な名前や時代遅れの名前、またタレントの名前を借用したことがすぐ分かるようなものは避けようという配慮もあったでしょう。しかし、たいていの場合イメージ先行で漢字は半ば当て字です。心愛(ここあ)なども同工異曲。

 日本には昔から言葉に宿る霊の存在(言霊)にとりわけ気を使ってきた歴史があります。保元の乱の後、讃岐に流され怨霊となった崇徳天皇は最初からそうなるように運命づけられていたのではないか、「崇徳」の「崇」の字に不吉なにおいがある、ウかんむりの部分を上下ひっくり返すと「祟」になるではないかと作家、井沢元彦は力説しています。

 長年子宝に恵まれなかった豊臣秀吉はようやく生まれた長男に「鶴松」というめでたい名前をつけたものの夭折されてしまい、次男の秀頼には「拾丸」という幼名を付けました。

 拾い子は育つという俗信を頼りにいったん我が子を捨ててすぐ拾い戻したのです。けれども運命の神はそういう人間の小細工なんぞ難なく見抜きます。立派に成人した秀頼も結局は徳川勢に破れ母淀君と自刀して果てました。

 名前が運命を決めるのか、運命は名前と関係なく最初から決まっているのか分かりませんが、犯罪の被害者になった少女たちはどこかはかない名前の子が多いような気がします。

 実例を挙げるのは不謹慎かもしれませんが、彩、花、菜、音などの字がついた少女たちが犠牲になるたびに「またか」と思います。単にそういうあえかなイメージの名前がこのごろの子供に多いせいでしょうか? 悪霊に目をつけられないためにはありきたりで平凡な名前が一番です。

本誌:2011年3.21号 12ページ

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