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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂12

 容堂は慶喜の立場をできるだけ救おうとしていたが、岩倉などの反対に遭い、征討の勅令が発せられ、容堂には四国の高松藩と松山藩の征討が命じられた。土佐で待機中であった乾退助は大軍を指揮して上京の途中であったが、高松城を接収した。高松城の守備は桐間将監(きりま・しょうげん)に委ねた。松山城は別軍総督深尾左馬之助(ふかお・さまのすけ)により接収された。両藩とも恭順の態度を示し、兵火を交えることはなかった。

 2月3日に江戸親征の詔が発せられ、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひと・しんのう)を東征大総督に任命し、薩長土やその他の諸藩の兵士とともに三道(東海道、東山道、北陸道)に分かれて江戸へ向かった。乾退助は先祖の武田家二十四将の一人板垣駿河守にあやかり板垣退助に名前を改めた。旧佐幕派の攻撃は激しく各地で激戦となったが、市民が巻き込まれることなく官軍勝利となった。板垣退助は家老格の処遇となり、後藤象二郎も中老格となった。

 慶喜のために尽力した容堂であったが、鳥羽伏見の戦いを抑えることができなかった。その責を負うべく辞職を願い出たが、許されなかった。新政府が生まれ七つの事務科ができ、容堂は内国事務総裁に任命された。事務科は事務局に改称され、総裁は総督に変更された。

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本誌:2022年夏季特別号 33ページ

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