WEB VISION OKAYAMA

連載記事杉山慎策の経営学考察

山田方谷5

 経営を成功させるためには元手の資金と経営ノウハウが必要となる。方谷はどのようにしてこの両方を手に入れたのだろうか。しかも、経営責任者のポジションにいた期間はたった8年間である。就任して3年後に新札を発行し、旧藩札1万1800両分を回収している。8掛けの現金で回収したとして約9000両のキャッシュが必要となる。繰り返すが、方谷が責任者になった時には10万両を超える借金を抱えていた。一体どのようにして短期間に潤沢なキャッシュを手にしたのであろうか。鍵となる人物こそ矢吹久次郎である。彼こそ「理財の外」でキャッシュを作り出すことに貢献した人物である。久次郎は方谷の弟子であり、同志であり、肉親以上の肉親であった。「ケインズに先駆けた日本人―山田方谷伝―」の著書である矢吹邦彦氏は久次郎を次のように述べている。矢吹邦彦氏は久次郎から4代目の子孫にあたる。

   「備中松山藩の外側にあって、全く治外法権の地から方谷を公私ともに終生にわた
って支援し続けた牛麓舎のかつての門下生であり、近隣諸藩の諸大名達がこぞっ
て頭を上げることができなかった大庄屋である。」

 中国山地には多くの「たたら遺跡」があり、この地が国内の製鉄を殆ど担っていたと言ってもよい。島根県にはたたら御三家と言われる田部家、櫻井家、絲原家がある。矢吹家は新見の天領である上市にあり、製鉄と酒造を担う小藩の大名を超える権勢を誇った一族である。その力は新見藩の関家や勝山藩の三浦家を凌ぐものであった。矢吹家は本家矢吹、北矢吹、南矢吹と3つに分かれていたが、久次郎は南矢吹家の第三代頭首である。

 彼は14歳で備中松山藩の方谷の私塾「牛麓舎」に入門した。下男下女付の久次郎は方谷による帝王学を受けたのである。残念ながら、久次郎の父の栄三郎が病に倒れたために二年に満たないで退塾することになるが、子弟の強い絆が生まれ、時としてぶつかり合うことがあったが、終生久次郎は方谷を助けることとなる。方谷の娘である小雪は久次郎の長男発三郎と結婚する。方谷が勝静の代理として松山藩を官軍の備前岡山藩の伊木若狭に引き渡す前のことである。方谷は城とともに討死するつもりであった。その意志を知った久次郎は二人の結婚を急がせ官軍との対峙の前に婚姻を実現させた。

 大阪にあった蔵米を売却することで資金を得たとする文献が多いが、それだけでは方谷の実現しようとする改革のための資金としては不足する。恐らく方谷は数万両の資金提供を久次郎から受け、それを元手に製鉄工場を高梁川の川沿いに建設した。後述するが、「備中鍬」は既にナショナルブランドとなっていた。ピーク時には製鉄工場が10棟近く高梁川に並んでいたと言われている。言うまでもなく、原料は久次郎の営む「たたら」で製造された鉄である。高梁川を通して高梁に送られてきた。

 イノベーション理論を作ったヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションには次の5つがあると定義している。

 (1)新しい生産物
 (2)新しい生産方法の導入
 (3)新しい販売市場の開拓
 (4)新しい供給源の獲得
 (5)新しい組織の創出

 久次郎の資金提供を受けた方谷は何を製造することで高い付加価値を実現したのであろうか。既述のとおり、備中松山と言えば「備中鍬」である。筆者は当初方谷がこの「備中鍬」を発案し大量生産したのかと思っていた。そうであれば方谷は本当の天才であり、正に起業家の中の起業家である。実は1822年(文政5)刊の「農具便利論 3巻」において 大蔵永常は既に「備中鍬」を詳細に叙述している。

 この文献から推察すれば「備中鍬」は方谷の生まれる前の18世紀末までには全国的に知られるブランドとなっていた。方谷は久次郎の資金援助を受け、この「備中鍬」の大量生産に乗り出したのである。これこそが大量のキャッシュを生み出す源となった。

本誌:2019年10月7日号 23ページ

PAGETOP