WEB VISION OKAYAMA

連載記事杉山慎策の経営学考察

JALのロゴ3

 多くの日本人にとって明治維新のころから第二次世界大戦の敗戦まではあまり深入りしたくない時代である。この時代のことが違和感なく議論されるには後50~60年はかかりそうである。戦前に大日本航空株式会社を設立し、日本から韓国、台湾、中国への定期便を運航し、敗戦後日本の翼の復興に貢献した斎藤武夫を知っている人は恐らくそれほど多くない。斯く言う筆者もJALのロゴを調べる中で斎藤武夫を発見した。

 斎藤武夫は1881年津山市桑上で誕生し、その後鏡野町伊勢領で過ごした。伊勢領という名前から伊勢神宮の領地であったのであろう。1895年14歳の時に新設された津山中学(現津山高校)に第一期生として入学する。1896年に津山中学を退学し、東京の錦城尋常中学校に入学し、大隈重信の書生になる。東京外語学校仏語科(現東京外語大学や一橋大学)に入学、同時に東京法学校(現法政大学)に学ぶ。1904年に日本郵船に入社。国内支店勤務後、上海支店やロンドン支店、シンガポール支店を経験し、1935年に取締役に昇格するも、1938年日本郵船を辞し、日本の航空産業の育成のための国策会社である大日本航空社長に就任した。戦争が激化する中1943年に副総裁を辞任し、1945年64歳で敗戦を迎えた時は大日本航空の相談役であった。大阪毎日新聞の1939年9月1日の記事によれば、「日満支にわたる航空輸送連絡の整備拡充をはかるとともに大陸航空輸送事業の発達興隆を助成し進んでは航空路の世界的伸張をはかり世界の新事態に即応すべくさきに大日本航空株式会社法が制定せられ逓信省では去る六月五日より設立委員を任命して設立に関する諸般の準備を進めていたが、三十一日午前九時半より丸の内日本工業クラブで設立委員会を開き創立総会に対する附議事項を決定、引続き創立総会を開催、大和田逓信次官議長となり設立経過報告、理事候補者の選挙、監事の選任などを決定して十一時十分散会、ここに大日本航空株式会社は滞りなく成立を見、九月一日より営業を開始することになり三十一日政府より同会社役員を発令した中川健蔵 大日本航空株式会社総裁被仰附 斎藤武夫 大日本航空株式会社副総裁被仰附」

 敗戦の混乱の中、斎藤は日本の将来のために航空産業の重要性を感じ、ロンドン時代の人脈である時の首相の吉田茂などとの人脈を生かし、日本航空の再興に全力を投入した。1951年日本航空株式会社設立準備委員会を設立。当時の財界のリーダーであった藤山愛一郎を発起人総代に据えて、創立総会を開催した。藤山愛一郎は大日本製糖の社長であり、日本商工会議所会頭であった。藤山は日本航空の会長に就任する。政財界の人脈を駆使して設立準備に奔走した斎藤武夫は最高顧問に就任する。時に70歳であった。航空会社の経営を熟知していた斎藤武夫が与えられた最高顧問というポジションは実質的には現在の会長職に相当する。1952年には日本航空株式会社が発足した。しかし、斎藤武夫は1953年72歳で逝去した。

 現在手元にある資料では斎藤がJAL社内で森家の家紋を提案したかどうかは確認できていない。分かっていることは第二次世界大戦後の日本では航空産業は揺籃期であり、顧客はアメリカ人など外人であった。JALの宣伝には既に空を優雅に飛ぶ鶴を使用していた。「長寿」や「平和」の象徴である鶴の使用に斎藤武夫がかかわったかも不明である。筆者は斎藤武夫が平和の希求のために鶴の選定にかかわったと考えたい。また、実際ロゴの作成はJALがDC8を使用して本格的に国際線を開始する1958年である。つまり、斎藤武夫の死後5年のことである。何故鶴丸をロゴとして使用したのか、考えられる仮説は以下のようなものである。

 仮説①:既に戦後JALは鶴をシンボルとして使用していたのでロゴを考える時に斎藤が森家の家紋などを検討するように生前社内で提案していた。

 仮説②:斎藤武夫が津山出身ということを知っていた社内の広告やデザイン関係者が忖度して森家の家紋をベースに考えた。

 仮説③:斎藤武夫は一切ロゴの作成には関係なくデザインを委託されたBCG(Botsford, Constantine & Gardnel)が独自に調査をして家紋などを参考に作成した。

 今後資料などを探し斎藤武夫がどのように関係したかを明らかにしたいと考えている。既に本誌で触れているように、ビール業界の二大巨頭であるキリンビールもアサヒビールも岡山県人の磯野計、馬越恭平が創設した。日本の空を担っているJALとANA両社とも斎藤武夫、美土路昌一という岡山県人が作り上げた。素晴らしい企業家を生み出した岡山を誇りに思う。

本誌:2018年6月4日号 23ページ

PAGETOP