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麒麟のストーリー

 ブランド戦略においてブランド名そのものの重要性は強調してもし過ぎることはない。地域再生のために地域のブランド戦略に関わることが多いが、ただ単に「メロン」と言ってもブランドにはならない。「メロン」は一般名称であり、どこにでもあるからである。「夕張メロン」のように地域名を入れたブランド名は大きなパワーを持つ。麒麟のブランド名を考える時に、この麒麟の名称を考えた人は誰なのか、どのような背景でこの名前を付けたのか、ブランド誕生の背景に想いを馳せざるを得ない。

 「麒麟麦酒株式会社五十年史」という最初に編纂された社史がある。この社史は当時の麒麟麦酒株式会社の取締役会長である磯野長蔵により編纂されたものであり、昭和32年2月に出版されている。磯野長蔵は明治屋を創業した磯野計の婿養子である。既に触れているが、磯野計は津山出身である。

 麒麟の原点は明治2年(1869年)に米国人ウィリアム・コプランドにより横浜山手の天沼に作られた「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」にある。このビールは通称「天沼ビール」と呼ばれた。コプランドはノルウェー生まれで、ノルウェーでドイツ人からビールの醸造法を学び、その後米国に移住した。明治初年には既に日本に来ていることが「横浜市史稿」に掲載されている。彼は「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を売却した後、日本人の妻とハワイに行き、その後グアテマラに行った。70歳の時に日本に戻ってきた。困窮の身で戻ってきたコプランドに対して麒麟は援助の手を差し伸べた。帰国後時を経ずして逝去したコプランドのために葬儀費用も含め全て麒麟が取り仕切ったと取締役会の記録に残されている。

 明治18年(1885年)にスプリング・ヴァレー・ブルワリーは岩崎弥之助氏などが出資して設立したゼ・ジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミティッドに買収された。この会社は製造だけに特化した会社のために、ビールを販売する会社との連携が必要とされた。一手販売を担ったのは三菱からの奨学金でイギリスに留学した磯野計であった。彼は留学から戻って郵船会社に食料品を納入する明治屋を創業していた。

 明治の初めの頃ビールは輸入品のギネス・スタウトやコプランドの天沼ビール、渋谷ビールなどがあった。ギネスは猫、コプランドは山羊、渋谷は犬をデザインに使用していた。三菱グループの経営者であった荘田平五郎は中国の架空の動物である麒麟を使用することを提言した。臼杵藩の儒学者の家に生まれた荘田は幼少の頃から天才と言われ、後に三菱グループを中核で支えた人物である。三菱に東京駅と皇居の間にある丸の内を買収させたのも荘田である。いずれにせよ麒麟をブランド名に使用することを思いついた荘田は人並み優れた知性を持っていた。

 磯野計はビールの拡売に力を注いだが、肺炎のために明治30年(1897年)に急逝した。明治屋はその後米井源治郎が引き継ぐことになり、明治屋の一手販売も三菱の信認を得て継続されることとなる。明治40年(1907年)にはゼ・ジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミティッドは解散し、米井源治郎、磯野長蔵や岩崎久弥男などの出資する麒麟麦酒株式会社に吸収され、ここに麒麟麦酒株式会社が誕生することになる。当時は井原市出身の馬越恭平が日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒を統合し圧倒的シェアを持ち「ビール王」と呼ばれていた。馬越もゼ・ジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミティッドを買収しようとしたが、結局麒麟は明治屋の米井達の傘下に入ることになる。当時のシェアは馬越率いる大日本麦酒が72%、麒麟が20%、その他が8%であった。

 経営戦略ではそのカテゴリーで最初の会社になることが重要であるといわれる。「ファースト・トゥー・ザ・マーケット」とはそのカテゴリーを最初に作り上げるブランドのことを言う。英語ではステイプラーというが日本ではホッチキスと一般的に言われるホッチキスはそのカテゴリーを作った会社名である。麒麟のブランド戦略上の優位性の第一はやはり明治2年に国産で最初のビールを作った会社であることである。

 加えて中国の古典の中で述べられている架空の動物である麒麟をブランド名としたことである。伝説の動物は空想の中の動物であるだけに時空を超えて人々にインスピレーションを与える。優れた名称を考えられるような教養溢れる人材を醸成する企業文化が大切である。

本誌:2017年GW特別号 23ページ

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