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資生堂のストーリー

 国内のもっとも古い化粧品会社では必ずしもないが、国内の化粧品のリーディング・ブランドである資生堂は1872年(明治5年)に海軍病院薬局長をしていた福原有信によって創業された。23歳の時である。既に述べた海軍軍医総監の高木兼寛の組織下にいたことになる。明治初期には漢方が主力であり、西洋の薬は粗悪品が出回っていた。福原有信は日本で初めての西洋風調剤薬局をオープンした。ブランド名の「資生堂」は中国の古典、四書五経のひとつ『易経』の「坤卦」の中にある「至哉坤元、万物資生。」という最後の二文字の「資生」と会社を意味する「堂」とを加えたものである。

 資生堂のホームページによれば「大地の徳はなんとすばらしいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる。」と解説されている。中国からの留学生たちの意見を聞くととても好感のもてるブランド名のようである。唯一の問題は日本語のように「しせいどう」とは発音せず、漢音で発音されることである。他方、欧米ではアルファベットのSHISEIDOを使用しているが、こちらも覚えにくく、発音が必ずしも「しせいどう」にならないという問題点もある。資生堂は戦前から海外展開をしていたが、戦後は1957年の台湾市場での展開からスタートしており、60年ほどの積極的海外投資により、日本の消費財ブランドの中で欧米でも認知されているグローバル・ブランドの一つとなっている。

 福原有信はその後帝国生命保険(現朝日生命)の創設などにも関わったが、資生堂を化粧品会社に転換させたのは赤い化粧水と呼ばれる「オイデルミン」の発売である。1897年のことである。東京帝国大学教授長井長義により、当時の最先端の科学技術を取り入れた処方であった。この「オイデルミン」の発売により資生堂は化粧品業界に進出することとなる。20世紀になり息子の福原信三の時代になり薬から化粧品会社への変身を遂げる。「オイデルミン」は発売から120年、娘・母親・祖母の3世代が使用するロングセラー商品となっている。資生堂は元々薬局という遺伝子を大切にしており、特にスキンケアの商品については世界的に愛用者が多い。

 一時資生堂は「スキンケアハウス資生堂」を唱えていた時代もあった。二代目の社長である福原信三は自らも画家を目指すほどの芸術の才能を持っていたが、アメリカのコロンビア大学の薬学部を卒業している。彼は自ら資生堂のロゴマークをデザインし、「花椿マーク」もデザインした。当時の一流のグラフィックデザイナーなどを採用し社内で、パッケージデザイン、グラフィック、コピーなども制作した。資生堂の広告やパッケージングが優れているのはこの社内体制のお蔭である。

 レブロンを創業したチャールズ・レブソンは「化粧品はクリームを売るのではなく夢を売るのだ」という名言を残している。化粧品にとって機能的ベネフィットより情緒的ベネフィットが大切であるということである。勿論、現代では両方ともバランスさせる必要がある。そのためには「アート」と「サイエンス」を上手に結合させる必要がある。資生堂の遺伝子の中にはその両方が入っている。恐らく世界中の化粧品メーカーの中でもこれだけの蓄積のある会社は少ない。要は、それを上手に生かすことができるかどうかである。

 資生堂は145年の長い歴史の故に、そして、コーポレート・ブランドの「資生堂」を重視して来たためにティッシュペーパーのパースサイズの54円から12万円を超える化粧品を同じ「資生堂」で展開してきた。近年新しい経営者の下でプロダクト・ブランドを独立させようとしている。海外売り上げも既に50%以上を達成している。今後の課題は如何にコーポレート・ブランドとプロダクト・ブランドをグローバルに整合性のある形で展開できるかである。

本誌:2017年3.6号 16ページ

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