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“人を裁く罪”の分担

 いつの間にどうやって決まったのか記憶に定かでない裁判員制度が、来年当たり遂に始まるようです。世論調査によると大多数の国民は裁判員など御免こうむりたいと思っているところに、幸先の暗さが見てとれます。

私も正直言って、引き受けても自信を持って判断できるかどうか、はなはだ心許ない気がします。というのも、最近の凶悪事件の判決を見ていると、素人と専門家との間では犯罪に対する考え方に相当のかい離があるように思われるからです。

 裁判員の席に座ってみたものの、結局は訳も分からないまま判決に加担し、しかも、一生くよくよと不愉快な思い出を引きずって生きていかなければならないとすれば、ずいぶんいやな“国民の義務”であるような気がします。

 学者の分析では、素人はプロよりも厳しい判決を出す方向に流れやすいとか。例えば秋田児童殺害事件。一審では大方の死刑判決の予想を裏切って無期懲役でした。

 確かに、現場の隣近所の人々はもとより、マスコミのコメンテーターたちも「死刑と思っていたのに…」などと感想を述べているところに、感情的厳罰論が垣間見えます。

 しかし、私は秋田のケースでは裁判官の判断は妥当だったと思います。担当裁判官には職業的・経験的に判断してもなお、死刑をためらう何かがあったのでしょう。

 それに反し、人を裁くことなど生まれて初めての素人は、被告の態度がふてぶてしいとか、町の人のうわさ話など、マスコミを通じて知った上っ面の印象ぐらいしか判断の根拠が無いはずです。もともと“他人ごと”なのに、にわかに正義感に燃えて刑を重くしてしまうのではないかと危惧されます。

 そもそも、いろいろ問題だらけの裁判員制度を導入する本当の理由は、一体何なのでしょうか?人を裁くという神か悪魔でなければできない仕事を職業としている裁判官が、自分たちの心の負担を軽減するために、一般大衆に“人を裁く罪”を分担させようとしている…下種の勘ぐりであれば結構なことですが。

本誌:2008年4.7号 14ページ

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