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連載記事杉山慎策の経営学考察

土佐藩のSWOT分析

 土佐藩のSWOT分析をしてみたい。薩長のSWOT分析と同じように外部要因分析であるOとTについては薩長と同じである。幕末の同時期土佐も薩長と同じ外部要因の影響を受けていたことになる。

 先ず、「強み」から見て行こう。元々織田信長(おだ・のぶなが)や豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)に仕え、その功績で掛川5万9000石の小大名となった山内家は、関ヶ原の戦いで徳川方につき、土佐20万2600石の大大名となった。四国は元々長曾我部(ちょうそかべ)が支配しており、土佐の地に入ることはかなりのリスクを伴っていた。山内一豊(やまうち・かずとよ)に従った家臣は上士として長曾我部の家来などを下士(郷士)として厳しく差別をした。土佐ではこの差別的社会制度のために、郷士の間では燃え上がるような反骨精神が生まれた。その精神の中から脱藩し薩長同盟を成功させた郷士出身の坂本龍馬(さかもと・りょうま)などがいる。

 幕末の土佐藩を率いたのは山内容堂(やまうち・ようどう)である。土佐藩の分家の南屋敷の出身であった。南屋敷は一門の中でも一番格下であった。第13代山内豊熈(やまうち・とよてる)、第14代山内豊惇(やまうち・とよあつ)の二代続けての予期せぬ逝去を受けて、英明であると言われていた容堂に白羽の矢が当たった。薩摩藩の島津斉彬(しまづ・なりあきら)や福岡藩の黒田斉溥(くろだ・ながひろ)、江戸の老中阿部正弘(あべ・まさひろ)なども巻き込んで容堂の藩主就任が決まった。しかし、隠居していた第12代藩主山内豊資(やまうち・とよすけ)は健在で、重臣たちは重要決定事項は藩主である容堂より、隠居の豊資の指示に従った。

 容堂が世の中に出てくることを後押ししたのは紛れもなく時代の要請である。黒船来航などに対応するために江戸幕府は全国の藩主に対応策について提言を求めた。土佐の提案を書面にしたのは吉田東洋(よしだ・とうよう)である。容堂はこの後明治維新を生み出す中核的役割を果たす。特に、大政奉還を進言したことは大きな貢献であると言える。もっとも、容堂は公武合体のような徳川を中枢として残す体制を目論んでいた。結果は反幕府の薩長と組し維新を成功させた。

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本誌:2022年12月5日号 19ページ

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