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連載記事杉山慎策の経営学考察

鍋島閑叟1

 今回は「肥前の妖怪」、「算盤大名」、「蘭癖大名」と言われた鍋島直正、通称「閑叟」(以下「閑叟」に統一する)についてである。九州は九つの国から成っていた。その内の「肥国」は「肥前」と「肥後」に分かれていた。「肥前」は現在の佐賀県と長崎県であり、「肥後」は現在の熊本県である。「肥」は「火」に通じ、阿蘇山に代表される火山の「火」を語源とする説や、「八代海の不知火」を語源とする説、また、「氷川町氷川(火川)」を語源とする説などがある。「不知火」とは、宇城市のホームページによれば、

   「不知火は、旧暦8月1日(八朔)未明に八代海(不知火海)の海面上に発生する蜃気楼現象です。気温が高い日中に海水面が暖められ、その海面が夜の冷気で急激に冷やされ、暖気と寒気が混ざり合った複雑な空気の層が作られます。その層により通常とは異なる光の屈折が起こり、その場にないはずの遠くの光が見える仕組みであるとされています。」

日本書紀にも景行天皇(第12代天皇でヤマトタケルの父)の九州巡幸の時に、「不知火の火」に助けられたという逸話が残っている。

 縄文時代の遺跡では青森の三内丸山遺跡が圧倒的な規模で私たちを驚かせた。弥生時代の遺跡では鳥取県の妻木晩田遺跡などが最近発掘され、今後も規模の大きな弥生遺跡は見つかるかもしれない。勿論、佐賀平野に横たわる吉野ヶ里遺跡も弥生時代を代表する大規模環濠集落である。この遺跡については作家の松本清張氏が分厚い研究書を残している。(『吉野ケ里と邪馬台国―清張 古代游記』日本放送出版協会 1993年)この吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の王家の墓は有明海の南西の方向に向かって眠っていて、稲作をもたらした中国南部の方向を睨んでいる。古墳好きにとってはロマンが広がる景色である。

 既に述べたように吉野ヶ里遺跡がある佐賀県に加えて長崎県が「肥前」と呼ばれる国であり、今回の主人公である閑叟が治めた土地である。閑叟についても多くの本が書かれているが、今回の執筆に当たっては主に久米邦武編集の『鍋島直正公伝』及び佐賀大学名誉教授の杉谷昭氏の労作『鍋島閑叟』等を参考にしている。

 閑叟の時代、つまり、江戸後期の日本には286の藩が存在した。徳川幕府の400万石を除けば、加賀前田家の102.2万石、薩摩の島津家の77万石、仙台の伊達家の62万石、熊本細川家の54万石、福岡黒田家47.3万石、安芸浅野家42.6万石、長州毛利家36.9万石、以上の6藩が江戸時代の大藩であった。閑叟の鍋島家は35.7万石であり、長州毛利家に続く石高を誇る。これら6大藩は三本槍が認められていた。三本槍は大名行列の先頭を飾る三本立の槍のことで、最高の格式を持っていた。因みに、将軍家は五本槍、御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)は四本槍であり、3万石以上が二本槍、3万石以下の小藩は一本槍であった。閑叟の鍋島藩も文久元年(1861年)に初めてこの三本槍の栄誉が与えられた。この年閑叟は隠居し、息子の直大に家督を譲った。

 佐賀藩の35.7万石の内、本藩は8.5万石、支藩が27.2万石であった。恐らく浅海を埋め立てたりすることによる石高の増加もかなりあったと推定される。寛永11年(1634年)には49.7万石あったとの説もある。佐賀藩はこれ以外に筑前黒田藩と一年交代で長崎の警備を担当していた。長崎の警備には費用もかかるが、同時に貿易による利益も期待できる。これらを加えると間違いなく35.7万石をはるかに超え、50万石くらいの経済力があったと推測される。

 文化11年(1814年)に閑叟は江戸の桜田屋敷で第九代鍋島斉直の長男として誕生した。山田方谷より9歳若い。文政8年(1825年)に将軍家斉の娘盛姫と結婚する。天保元年(1830年)17歳にして鍋島藩第十代藩主となる。宇和島藩伊達家の宗徳の妻は閑叟の姉であり、宗徳の父の宗紀の妻も閑叟の叔母であった。熊本藩主細川家、越前福井藩主松平家、朝廷側では、久世通熙などとも縁戚関係にあった。江戸城内では「松平」を名乗ることを許され、徳川幕府の信頼の厚い人物であった。

 明治維新は薩長土肥により実現されたといわれる。閑叟は公武合体を中心に考えていたようである。同時に列強による隣国中国での植民地政策などの実情を熟知していた閑叟は、日本国内で他国からの軍事援助による国内紛争を避けるべきであると考えていた。最終的には尊王攘夷派に加担し、最小限の犠牲で明治維新を成し遂げた功労者といえる。今回は閑叟を取り上げ、彼がどのように佐賀藩の経済を立て直し、軍事力を高め、明治維新に貢献したのかをみることとする。

本誌:2020年夏季特別号 23ページ

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