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連載記事杉山慎策の経営学考察

島津斉彬4

 薩摩から欧州に派遣された人材は、帰国後集成館紡績工場の建設・運営、造船をはじめ日本建国の礎となる産業革命の主役となって活躍することになる。

 家臣に対し斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり、退屈せずますます研究すべし」と励ました。幾多の苦労の末に反射炉を完成させた。日本では当時佐賀の鍋島藩だけに反射炉が建設されていた。

 江戸時代一つの藩は恰も独立国家のような運営がされており、人材も自前で育成する必要があった。今日の地方創生も結局地元で活躍する人材を自前で育成し、地元で活躍する場を提供する必要がある。地域にある国立大学や私立大学を大切にして地域のための人材を育成すべきである。

 天保6年(1835 年)島津斉宣と世子であった斉彬が種子島で狩猟をした。斉宜の二女が第23代島主種子島久道に嫁いだが、久道は早く逝去したので松寿院と呼ばれていた。松寿院は斉彬の叔母にあたる。斉宜は松寿院に海上から猟を見学するように指示した。仕立てられた船には「日の丸」と「三色(青、赤、白)」の種子島の船幟が立っていた。斉宣はこの「日の丸」を島津家の船幟として伝えることを命じた。

 安政元年(1854 年)、薩摩藩初の洋式軍艦昇平丸が完成し、「日の丸」が掲げられた。その後、斉彬は「日の丸」の色や寸法の規定を設けて、日本の旗とすることを幕府に提案した。明治政府は明治3年(1870 年)以降、「日の丸」を日本の国旗として採用することとした。

 斉彬が常に家臣に教えていた治世の要は次のようなものであった。

 ①人心の一和は政治の要目なり②民富めば国富むの言は君主たるもの一日も忘るべからざる格言なり③人君たるものは公平無私、愛憎の念無きを要す④凡そ人は一能一芸なきものはなし。その長短を採択するは人君の任なり⑤既往の事を鑑みて前途の事を計画せよ⑥勇断なき人は事をなすこと能わず⑦ 一癖あるものにあらざれば人は用に立たず⑧天下の政一変わらざれば外国と交通をなすこと能わず⑨国政の成就は衣食に窮する人なきにあり⑩下情上達は政治の要なり⑪彼を知り己を知るものは百戦殆からず⑫古への道をきいても唱えてもわが行にせずはかいなし⑬とがありて人を斬るとも軽くすな活かす刀もただ一つなり

 斉彬はことの他民の安寧を願った君主である。年の初めに詠んだ歌が、「三つの国万の民も安かれと歳のはじめに祝う言の葉」である。三つの国とは薩摩、大隅、日向の三国のことである。薩摩藩は九州の九ある国の内三つを領地とした。

 薩摩藩では城内を細かく分け「外城」と呼び、役所にあたる地頭仮屋を設けその近くに住む武士たちを束ねる役目を果たした。城内には100を超える「外城」があった。この「外城」はのちに「郷中」と呼ばれるようになった。6~7歳から15歳までを「稚児」と呼び、15歳から25歳までを「二才」と呼んだ。若者はこれらの「郷中」において学問や武芸を学んでいた。明治維新で活躍する西郷隆盛や大久保利通などもこの「郷中」の出身である。学問的に優れた教育というより薩摩藩が一体となって藩を守るための教育が行われた。この基礎となるのが薩摩を統一した島津忠義(島津日新公)が作成した「イロハ歌」である。

 「郷中」が下級武士や庶民の教育のためであるのに対して、薩摩の藩校が「造士館」である。これは8代藩主である島津重豪が安永2年(1773年)に創設したものである。「造士館」は幕府の「昌平坂学問所」をモデルにして作られ儒学を教える教育機関である。また、この「造士館」の隣には剣術、柔術、弓道などを学ぶ「演武館」が設けられた。また、安永3年(1774年)漢方を学ぶ「医学院」を増設している。

 斉彬は重郷が創設し停滞していた「造士館」や「演武館」を改革し、儒教と武芸教育に加えて、西洋の実学を学習の中心においた。斉彬は安政4年(1857年)に告諭を発し「修身・斉家・治国・平天下の道理を究め、日本国の本義を明らかにし、国威を海外に発揚すること」を教育の基本として定めた。 

 造士館では、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、などが学び、明治維新で活躍した人材を輩出した。造士館はその後一時廃校となったが、1901年にナンバースクールの第七高等学校として再興され、戦後鹿児島大学となって現在に繋がっている。

本誌:2021年3月1日号 19ページ

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