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連載記事杉山慎策の経営学考察

島津斉彬2

 薩摩藩の財政は危機に瀕していた。斉興と重豪は相談して調所笑左衛門広郷を抜擢して財政改革をさせることとした。調所は元々川崎良八といい、安永5年(1776年)に生まれ、調所清悦の養子となり、寛政10年(1798年)江戸の芝の薩摩藩邸で重豪の御附奥茶道となり、斉興の御側用人となった。元々、財政の専門家ではなかったために、最初は就任を断ったが、最終的にこの大役を引き受けることとなった。文政7年(1824年)のことである。

 調所は就任直後大坂に赴き、富商に資金調達を依頼したが、誰一人として出資をするものがいなかった。調所は絶望して切腹をしようとしていたところ、浜村孫右衛門が彼に同情して、平野屋、炭屋、近江屋など五人の「新組銀主」を組織し、改革に必要とする資金が調達できることとなった。重豪・斉興の信任を得て、調所は天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世した。

 天文学的借金をどのように調所は処理したのであろうか。500万両の借金については「250年賦、無利子償還」を一方的に宣言し、元金1000両につき年4両づつ250年をかけて返済するというものである。返済は元金のみで利息なしという条件で、天保7年(1836年)から償還を始めた。従って、完済は2086年になるが、明治政府の取った明治5年(1873年)の廃藩置県により免責となった。

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本誌:2021年1月1日号 99ページ

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