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母の弟(上)

 大正生まれの母には10人を超える兄弟姉妹がいました。裕福な家庭だったらしく、母の母親は子どもを生んでも授乳や育児は乳母にまかせっきり、自分は生むことに専念していたそうです。母は晩年になってもよく嘆いていました。「姉たちみんな美人なのに私だけ色が黒いのは私の乳母が色黒だったからだ」と。

 ほかの兄弟姉妹全員が亡くなり、母ひとり百歳近くなって今は寝たきりながら自宅で平穏に人生最後の日々を過ごしています。母の嘆きだった色黒は、もはや乳母の影響はどこにもなく、新潟女性特有の天生の麗質を取り戻しています。

 ほぼ末っ子だった母には省吾という名の弟がいたのですが太平洋戦争末期に召集されわずか20歳前後で戦死しました。フィリピン方面で死んだという以外何も分かりません。戦後の混乱期にどのように弔われたのか、墓がどこにあるのかさえ判然としません。

 おそらく当時の多くの若者同様何がなんだか分からないまま戦争に徴用され死んでいったのでしょう。未婚だったので遺族年金を親戚のだれかが受け取ったという話も母から聞いたことがありません。

 今から7、8年前、母の認知症が重くなってきたころ、私の知り合いの若者が大阪から我が家に遊びにきたことがあります。友人は上背があり短髪でなかなか凛々しいルックスの持ち主です。すると母は「省吾や、おまえ、帰ってきたのか!」と驚きの声を発しました。省吾叔父はついに母のもとに帰ってきたのです。

 ちなみに大阪の友人は昨年父が亡くなる前、「幻影の先輩」(*)の役を演じてくれた男と同一人物です。父と母がそれぞれ青春時代に戦争で失った先輩や弟として人生最後に、朦朧とした意識のなかで、奇跡の再会を演じてくれた希有な存在です。

 母にとって大切だった弟をちゃんと弔ってあげないといけないなと思っていた矢先、新聞の片隅に“「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」の支給について”という政府広報が掲載されているのを目にしました。

 政府のこの種の給付金を受け取るのは素人の手に負えないくらいハードルが高いものですが、今回は挑戦してみようという気になりました。戦争で死んだ叔父と遺族である母のために弔慰金をもらうことは私の義務であると思ったからです。(続く)(*)本誌2014年3月3日号に掲載

本誌:2015年11.9号 13ページ

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