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震災20年(上)

 1995年1月17日午前5時46分、大阪の淀川べりに立つ30階建てのマンションが突然ギシギシと激しく揺れました。あまりの激しい揺れに私はマンションの上層部がぽっきり折れて今にも建物全体が崩壊するのではないかと本気で心配しました。

 すぐにテレビをつけたのですが、震源は淀川上流の京都というニュースが流れていました。地震の規模が大きすぎて本当の震源地のデータが伝わらなかったのです。

 窓の外を見るとようやく白みかけた神戸・六甲山方向に黒煙が立ち上り、そのうちテレビに倒壊した阪神高速道路のすさまじい光景が写し出されました。これが地獄の年月の始まりの日の最初の記憶です。京都・大阪方面から何機ものヘリコプターがどんよりした空のもと神戸方向に飛んで行くのが窓から見えます。

 とっさに神戸の女子大に通っていた姪の安否が気遣われました。学生マンションが倒壊して下敷きになっているのではないか?無事であるにしても水や食料がなく困っているのではないか?などと心配になり、私は食べ物や水を車に積み込んで神戸に向かいました。

 国道2号線では救急車、消防車に混じって自家用車や商用車、トラックなど何の規制を受けることもなく普通に走っていました。ただ異様な光景として今でも目に焼き付いているのは2号線を大阪方面に向かって黙々と歩いているおびただしい人々の群です。

 姪が住んでいる東灘区に近づくにつれ建物が倒れているだけでなくあちこちで火災が発生しています。そのすぐそばを通り抜けながら姪のマンションに3時間がかりで到着し、部屋をノックしました。姪の返事があり部屋から顔を出しました。そしてびっくり仰天。テレビが吹っ飛び、家具や本、食器が散乱した修羅場に何と男子学生の姿があるではありませんか。ボーイフレンドがちゃんと駆けつけていたのです。

 「何だ、心配して大阪から駆けつけることもなかった。お邪魔しました。水と食料はここに置いておくから」と言ってすぐに大阪へ帰ることにしました。ところが帰路は信じがたい渋滞です。当時はまだ救急車両優先の考えもなく、私自身車で出掛けたことを反省もせず、いつになったら大阪に着くのだろうと自分のことばかり考えていました。(続く)

本誌:2015年1.26号 14ページ

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