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我流と美学の相克(おおげさ?)

 このごろイキのいいママカリをスーパーの鮮魚コーナーでよく見かけます。ママカリは自分で作った酢漬けが一番、すでに酢漬けになった加工品は調味液に食酢と塩以外にも何か入っているようであまり好きではありません。

 下準備としてまず包丁でうろこを落とし、次に頭と小骨が多い腹をそぎ落とします。問題はこの頭と腹を切る方法です。小魚と言っても20匹もいると手順を上手にやらないと時間がかかるし美的にも減点です。

 右利きの私はママカリの頭が右になり腹が向こう側になるようにして、包丁で頭を落とし、ママカリを90度時計回りに回転させ(つまり縦向きに)、右手の包丁で腹を肛門からえら方向にはねて落とします。

 ここでいつも悩むのは割烹の精神、あるいは美学から言って、小魚といえども、そして調理段階といえども、魚を一瞬でも腹を向こう側に向けたり、頭を右にするような作法があるのかどうか、果たしてそういう処理の仕方は許されるのかと悩みます。

 もちろん頭は右、しかし腹は手前に置いてもできないことはないのですが、作業にリズム感が出ません。「そんなことどうでも構わない、好きにしたら」と言われそうですが、プロの技はどうなのか気になります。なぜこんなことを気にする性分になったかというと、遠い昔、小学校の4年か5年のころ教師から受けた叱責がいまだに忘れられないからです。

 習字の墨を摺るのに手間がかかるのが面倒で一工夫しました。文鎮で硯に5mm幅の傷を何本もつけて硯の表面をザラザラにしたのです。それを見つけた女性教師が何でそんないたずらをするのかと追求するので理由を説明したら、「それがいい工夫なら、はじめから硯に傷がついてます!」と怒られました。

 「そうかなあ?」。自説を信じること数十年、最近テレビで、硯も墨をすっているうちに表面がツルツルになり摺れなくなるので表面をザラザラに研ぐといい、というのを聞いて溜飲を下げました。でも先生はきっと私の行為に不純な動機、何か美的でない、伝統に背くにおいを嗅ぎ取られたのでしょう。(心を静めて無心に墨をするのが書道です)

 ママカリの頭を落とすのにこれがベストと思う方法でやりつつもなお50年前の先生のあきれ顔がちらつきます。道の奥は深いです。

本誌:2012年2.27号 13ページ

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